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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月14日
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7-6:ホーム《建寛の錯視とバグの話》


 それを見て、彼は少しだけ元気をもらうことができた。する。と手を休めてコーヒーカップを傾けながら〈ガリ勉〉が

「今日もあいつの分を作るつもりなのか」

 と切り出してきた。

 〈ガリ勉〉が言及しているのは、〈不良〉の分の夜食のことだった。

 あの「事件」以来〈不良〉は彼らの作る食事にはまったく手をつけなくなったのだ。それどころか顔を合わせても無視をするか舌打ちか、あるいは罵詈雑言を浴びせてくるのが日常茶飯事となっていた。

 それを受けて〈ガリ勉〉は『わざわざ食ってもらおうとも思わん』と割り切ってあっさり〈不良〉の分を用意するのをやめた。けれども、彼はどうしてかそれができずに今はいない誰かの帰りを待つように、食卓の誰も座らない席の分まで夜食を用意し続けている。

「あいつがおれたちが作った飯には意地でも口をつけないのはわかってるだろう」

「ああ」

「食材のムダだ」

「・・・かもしれないな」

 そのくらいのことは分かったいた。「でも」と、一言はさんで彼は続ける。

「あいつもこの前の一件で罰金くらって小遣い徴収されてるし。そろそろ食うに困ってるかも知れないだろ」

「そんなに腹を空かせてるようには見えんがな。大方どこぞの同類からカツアゲでもしてるんだろう」

「その可能性も、あるかもしれないな」

 だったらなおのこと良くない、と彼は思った。しかし、かといって有効な手立てが思い浮かぶのでもない。

「食べてもらえないのはわかるけど、だからって作るのがムダとは思わない。それに余った分もちゃんと誰かが食べてるんだし、大目に見てくれよ」

 主に大食漢の〈補助員〉が嬉しそうにたいらげてくれる。

 頼むようにして意見を伝えると、それ以上は何も言われなかった。お互いの考え方の違いの原因はそれぞれの性格の違いにも由来するのだろう。けれど、それ以上にお互いが武井大河という人間をどのように捉えているかが決定的に異なるのはないか。常日頃そう感じていた彼は、ここで〈ガリ勉〉にそれを尋ねてみることにした。

「・・・なあ。建寛は大河のことどう思う?」

 返ってきたのは即答だった。。

「素行不良の問題児だ」

 鉄の壁を前にしているような気分になってくる。そこへさらに畳みかけるようにだめ押しを食らわせてくる。

「誰が見てもそうだろう」

「・・・たしかにそういう面もある」

「ほかにどういう面がある?」

「それは――まだ、見せてもらってない」

 明確な言葉や断定を避ける彼の言動を逃げと判断した〈ガリ勉〉の几帳面さ、というより灰色を許さない厳格な正義感は決してそれを見逃さなかった。

「なんの根拠もなく思いつきを口にしたのか?」

 そう問われると彼とて応じないわけにはいかない。

「それなら、建寛は大河のことを生まれつき筋金入りの問題児だと思うのか?」

 すると売り言葉に買い言葉で、

「ふん、あいつならはいはいするより先に中指立てることを覚えたかも知れんな」

 と答えるので、今度は彼が「ふざけてるのか?」と目で問いかけた。そのあとは神妙な顔つきに戻って、

「まあそれは極論としても、だ。

 もちろんさまざまな成長の可能性はあっただろうが、それらのひとつの結果としてああいう人間ができあがったんだ。こんなことを言うと、他の可能性や側面だってあると主張してくるんだろうがな」

 彼はここで反論を加えたり自分の主張を押し通すよりも相手の意見にもっと深く耳を傾けることを選んだ。

「そんなことを考えていたらきりがない、って?」

「ああ。現実的に考えればな」

 現実的、この言葉が〈ガリ勉〉にとってのネックになっているような気がした。彼はあくまで沈黙を守って相手の話の続きを待つ。

「錯視、というものは〈罪人〉も知ってるだろう?あれはどうして起こると思う」

 いきなり脳科学だか認知心理だかの質問をされた。戸惑いながらも答えようとする。

「え?あー・・・脳の認知の仕組みからくるバグ?」

「ふむなかなか的を射てるな。それにバグという表現も面白い」

 とっさの答えは思いの外お気に召してもらえたらしい。

「錯視というのは実は人間が進化する過程で獲得した必要な機能だという説がある。たとえば、人間が行動を起こそうとするときにはまず判断を下さないといけない。では、目の前の情報が曖昧であったり、あるいは無限の解釈の仕方がある場合、どうなってしまうか?」

「・・・判断が遅れるか、できなくなる?」

「しかり。生き延びるには瞬時に判断を下して、そうして行動を起こしていかなければならないのに判断のところで詰まっているといつまでたっても身動きがとれないままだ。

 そこで脳は答えのない問いに答えをだすために、きちんと物事に白黒つけて行動を起こすために、現実でもっとも起こる可能性が高い妥当な解釈を選ぶ機能を得た。これが錯視と呼ばれるものの正体だ」

「なるほど」

 だんだん〈建寛〉の言い分が見えてきた。

「とはいえ、もちろん完璧なシステムではないから過ちも起こる。おれだって自分のやっていることが理想に届かないことくらいは承知している。しかし、だ。最も妥当な選択をしているつもりではある。

 確かに〈罪人〉の言うとおりにしてみて、その通りになる可能性だってまったくないわけじゃない。だが、それとまったく逆のことが起こる可能性だって存在するわけだ。良かれと思ってやったことのために、かえって最も恐れていた出来事が起こる、よりここが殺伐とした場所になるかもしれない」

 大統領選にも出られそうな長い演説は、けれど理にかなっていた。そうして聞けば聞くほどに一番正しいのが〈ガリ勉〉であるように思えてくる。

「・・・・・・」

しかもまだ、その論説には続きがある。

「それに、さきほど〈罪人〉は錯視のことをバグだと言ったが、あれだって同じだ。

 コンピュータというのは複雑怪奇なもので、あるバグを直そうとしたがためにシステムそのものに致命的な破綻が生じることだってままある。触らずに放って置いたほうがいいバグだってあるのだ。バグを直すことが必ずしもよい結果をもたらすとは限らないんだ。色んなものごとに妥協したり、諦めたり、ほどよく見切りをつけているおかげで保たれているのが我々の生活の実情だとおれは思う」

 緻密に編まれた論理。実践的な哲学に基づく現実的な判断。そうして最後の一撃が彼を見舞う。

「そもそも完全を目指そうとすること自体が不完全極まりない。

 この諦めに満ちた現実の中で、ちっぽけな人間がそれでも希望を失わずに前へ進むには、分相応な選択をするのが妥当じゃないのか?」

「・・・・・・・・・」

 



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