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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月14日
52/106

7-3:廃 墟《汚染されたはずの美しい海》


 砂浜まで降りてきて、波打ち際を2人で歩く。

 日の沈みきらない空はてっぺんの方にはまだ透明な青さを残しているのに地平線へと近づくごとにだんだんと水に薄められた水彩絵の具のような淡い桃色へとかすかなグラデーションを織りなしていた。

 空を漂う綿雲も縁日の日に売られている着色された綿飴のような桜色になってゆっくりと風に乗って流れていき、その彼方では名残惜しげな太陽が街の上を深い茜色に染め上げていった。

 そして彼らの足下をさらう海も燃え上がるように燦々ときらめき、その輝きは尽きることがない。この世の平和を見守っているかにすら思える、その穏やかで大らかな様を見て、彼の胸にはある感慨深い実感が湧いた。

(この海が、目の前のこの海原が――)

 こんなにも平らかで穏やかなものですらひとたび地の底から大きく揺り動かされるとなにもかも飲み込む津波となって猛威を振るう。人々の生活を、先人たちの築き上げてきた町並みを

根こそぎ流し去り、いくつもの命を自らの中に引き込み連れ去っていったのだ。

 誰もこの海には逆らえなかった。人の知恵も力も及ばないほどの途方もなく大きなうねりの前になすすべもなくただただ押し流されるばかりだった。数え切れないほど多くのものが、あまりにもあっけなく奪われた。

 この、彼らの足下でゆっくりと寄せては返す可愛らしい小波がかつてさっきまで2人が腰掛けていた防波堤をも優に超す――それどころか町を丸ごと飲み込んでしまうほどの――巨大な壁となってなんの慈悲も示さないやり方でこの町の人々の全てを蹂躙したのだ。

 木々は引き千切られ、築き上げてきたものは瓦礫の山となり、人も動物も、車でさえもおもちゃのようにたやすく津波に運び去られた。後に残るのは貪り尽くされて変わり果てた街の残骸であり待ち受けているのは絶望の底にあっても無常に続いていくこれからの生活だった。

 土地は塩害に蝕まれ、人々はその希望を打ち砕かれ深い傷痕をその心に抱えながら、それでも生き延びたからには生き続けることを余儀なくされた。

 彼もその大災害を経験した一人であり、いまだ塞がりきらない傷口では今も消えない痛みが生きている。

 その海を、どれだけの人を殺してきたのかもわからない海を目の前にして、それなのに彼は思うのだった。あんなにも残酷で恐ろしいことを経てなお、なぜ海というものはこんなにも穏やかで、美しく、そして懐かしくすらあるのだろう。

 その表情の多面性がなにかの天啓を彼に授けるような気がした。

 昼間の海しか見たことのない人にとって海は爽やかな青色であり曇りの日の海しか知らない人にとっては海とは厳しく暗い鉛色のものなのだろう。そして彼にとって海と言われて真っ先に浮かぶのは、この茜色の夕焼けを映す黄金のものだった。

 あるときそれは慈悲深い女神のように人々に恵みをもたらし、またあるときは猛り狂った怪物のようにすべてを破壊しにかかる。けれどもそれらは皆、同じものを別の角度から切り取った一面に過ぎない。

 目に見えるものは事実なのかもしれないが、それが普遍的な真実である保証などどこにもありえないのだ。そして自分の見たことのない事実というものがどこかに存在しうるという可能性が、自分の見てきたものを、そうして今まさに見ているものを常に相対化させる。

 だからこそ、この両目は常に開いておかなければならないのだと彼は考えた。

 彼の心の中には、〈不良〉と〈ガリ勉〉――武井大河と龍造寺建寛の姿があった。

 神ならぬ人の身にすぎない彼は、自分がすべてを知り尽くすことはできない事実をあらゆることの前提として認めざるを得なかった。ゆえに、これまで築いてきた価値観にどうしても見方を狭められそこに偏見が生まれる。そうかといってなんの理解の枠組みもなければ相手を知る足がかりさえ得られない。

 不出来で不完全なことはどうしようもない。

 ならば必要なことは、壁に直面したときに、そこから何を学びどのように自分の偏見を修正し更新していくことができるかなのかもしれない。そしてそれは壁にぶつかることでしか成しえない。とするのであれば、彼が今まで避けてきた挫折こそがそして果てしない遠回りこそが彼にとって最も必要なことかも知れない。

 向き合うことによって自分の矛盾を突きつけられるし、答えがない中で答えを出すことを迫られる。自分の弱さをさらけだし、相手の欠点にも触れてしまう。それはきっと耐えがたい痛みを伴うだろう。けれども、自分だけ安全圏にいて自らを棚に上げた批評を加えたり無責任な忠告を加えるような真似だけは絶対にするまいと決める。傷つける代わりに彼自身も傷を負うことから逃げない。ただ誠実であろうとすること。それこそが凡人にすぎない彼にできる唯一のことだった。


(――また悪い癖がでたな)

 せっかく廃墟に彼女といるのに、またつい物思いに耽ってしまっていた。うつむいた顔を上げてみると、少し離れたところに彼らがいつも時間を共にしている例のビルが目に入った。

「皮肉と言えば、1つ思いだしました」

「・・・?」

 少し歩く速度を落として彼女に並んでから、声を掛ける。

「あのビルの名前、〈ウォーターフロントガーデン〉って名前っていうんです」

 そう言う彼の視線を追って、彼女もビルの方に目を向ける。

「へ~。なんだか水と緑に恵まれた感じですね」

「でしょう?ウォータフロントはまだ立地からして分かるんですが、ガーデンというのは無機質な鉄とコンクリートの建物にはあんまり似つかわしくないんじゃないかって最初は思ったんです」

「言われてみれば。でもなんだかときどきありますよねそういう名前のビル」

 ここでちょっと雑学を披露したくなった。

「ビルの名前にも流行があるみたいなんです。昔はビルディングとかセンターとかが流行ってて、今はスクエアとかテラスとかが多いとか」

「そう言われるとなんだか諸行無常な感じがしますね」

 もっとも瑞々しい若さを謳歌する年頃の少女であることを疑いたくなるほど人生を俯瞰したような横顔をしていた。

「ここにいるといつもそれを感じます」

 彼も偽りのないところを述べた。

 ここからでも、彼の使用している部屋の窓が緑に覆われているのが見える。そこからかろうじて、今にも消えてしまいそうなほどの頼りなさで彼の育てている鉢植えが小さく見える。あんなものを、よく見つけられたものだと今さらながらに思う。

「このビルだって、そんな名前をつけられたころには、まさかここまで緑豊かになってしまうなんて思ってもみなかったかもしれませんね」

 他人からつけられた名前に、時間をかけてその実態が追いついたのだ。

「それを聞いたらちょっと恥ずかしいです」

 はにかみを浮かべながら彼女が言う。

「・・・なにがですか?」

「〈希〉って名前。気に入って入るんですけど名前負けしてるじゃないですか」

「そうですか?俺はそんなことないと思いますけど」

 そして彼自身もまた予想することができなかった。彼女と分かち合う何気ない時間がまさかこれほどまで彼の中で大きな存在になっていくなどとは。

「――お世辞ばっかり」

 それが照れ隠しなのか本当にそう思っているのか、彼には分からなかった。彼女にとって自分がどのような存在なのかも。

 あるいは、それを知らないからこそこんな関係が続くのかも知れないけれど。


 

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