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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月14日
51/106

7-2:廃 墟《潮風とシャンプーの香り》


  ◇  ◇  ◇


 いつものようにフェンスをくぐる。

 すると重力のない場所へ入り込んだような気持ちがする。その瞬間の、外界で背負っていたものを下ろしたような開放感が好きだった。サラリーマンがその窮屈な羽根を伸ばそうと会社帰りに夜の店へと姿を消すのは、こんな風にして心を軽くするためなのかも知れない。

 日々のしかかる責任や義務という重圧に押しつぶされないで戦い抜くには、やはりどうしても心の拠り所と秘密の息抜きが不可欠なのだ。

 そうして今日も彼は心持ち制服のネクタイを緩めながら、町の真ん中になにかの間違いで空いた空洞のような立入禁止区域を歩くのだった。


 ビルの方へ歩いて行くと途中の浜辺で足跡を見つけた。

 おや、と思いその先を目で追ってみると防波堤に腰掛ける人影がある。ゆるい潮風にほどかれて、たゆたうようになびく長い黒髪。つい数時間前に彼の幻想の中に現れたのとほとんど変わらない姿だった。改めて足下に目を向けると、彼の居る場所から彼女のいる場所へと点々と足跡が伸びている。まるで見失わないための目印か何かのように。

 彼は痕された足跡を辿って歩いていく。たえず耳の底を波音がさらってゆき、彼が一歩踏み出す度に足下の砂浜がさく、さく、と軽い音を立てる。

 そして防波堤へと続く階段の手前で少しだけ足を止める。

 潮風が磯の香りを運ぶたびに、頼りないもののように揺れる美しい髪。フェンスの向こうから聞こえてくる外界の音と寄せては返す波の音が彼の立っている場所で巡り会う。普段は好きになれない街の音もこうして遠く隔てられた場所で聞けばどこか懐かしく、心地よくすら感じられた。

 ここには彼の求めている静けさがあった。

 ただ無意味で穏やかで、寂しさが鳴り響きそうなほどに安らかだった。その中に神さまがこの夕景のためにあつらえたような姿があった。彼がいつ気づくだろうかと見つめていると、

「ばれちゃってますよ」

 微笑みをたたえた少女がこちらを向く。

「別に隠れてたわけじゃありません」

 気恥ずかしさを照れ笑いでごまかしながら歩み寄る。

「水辺は冷えますよ。特にこれからの時間は」

 海から送られてくる風は昼間暖められたはずだろうけれど、そう言う間にも少しずつ冷たくなっていくようだった。

「はい。でも、もう少しだけ」

 そういってまた琥珀の欠片を注いだように輝く海原を見つめるその目には、いつもとは違う色が見えているのかも知れない。

「――夕陽を見てるんです」

 口にしなくても分かること、ではないのだろう。言葉にして空気に触れさせたいと思うほど大切で、それが独り言になるほど自然ななにかがそこにあるように思われる。

 それを目にしたくて彼も同じように海を見つめる。けれど同じものに目を向けたとしても、彼女の瞳に入る世界と彼の目に映る景色は同じにはならない。そうと知りつつ彼は海を見つめる。ならばせめてこの目はなにを捉えるのか確かめたいという気持ちもあった。

「・・・・・・?」

 すると隣で何かを叩く音がする。彼女が座っている自分の隣をぽんぽんと叩いていた。

「失礼します」

「どうぞ。遠慮なさらず」

 少しだけ間を開けて隣に腰掛けると海の匂いに混じって、彼女の髪から花のような甘い香りがふわりと舞った。

 

 彼女は、やわらかく目を細めて果てなく広がる海原を見つめている。こうしてどちらもフラットな気持ちでただ隣にいるだけでなんとも落ち着いた雰囲気の、胸の底がしん、とするような少女だった。

「きれいですよね、海」

 月並みな感想だった。けれどもそれがかえって心地よかった。あまりおしゃべりが得意そうでない彼女の横顔が、彼女が心を海に浮かべる感動を大げさでなく物語っていたから。

「はい。この時間帯は、特に」

 彼も強いて多くを語ろうとは思わない。

「・・・皮肉ですよね」

 話しかけているのか独り言なのか曖昧な声をぽつりともらす。彼はただ黙って、次の言葉を待つ。ここにはそうすることができるだけの余裕があった。

「みんなここは汚染された土地だっていうけど、あたしこんなにきれいな海をみたのは初めてです」

 またゆるい風が吹いて、細くなめらかな髪と制服のスカートが、その風を含んでやわらかくふくらむ。

 その表情に、彼はまたしてもなんとも言えない儚さを感じた。あるいはいまだに心のすべてをさらけ出さないままの二人の間に流れる、ふたしかな距離が見せる幻であったかもしれない。

 彼女のつぶらな瞳はまるで海の色を注ぎ込まれたかのように、あざやかな黄金をたたえていた。そして、それらにはけっして触れることができないからこそ哀しいほどに美しいのだろうということを、彼はおぼろげながらに知っていた。

「俺もはじめてここに来たとき、同じような気持ちでした」

 彼はわけもなく、ただどうしようもなく悲しいような、切ないような気持ちに包まれた。

「人の手から離れているからかもしれません。誰も居なくなってしまったから生活する上ではどうしよもない排水が垂れ流されるのも少なくなったでしょうし、魚をとるのも難しいでしょうから自然が干渉されないありのままの営みを守ることができるんでしょうね」

 そして、それ以外にもなにか、ひっそりとこの景色を美しくみせる秘密がどこかに隠されているような気もする。

「この廃墟も海も、すごく大切に思ってるんですね」

「・・・身勝手な気持ちだとわかってはいるんですけど」

 彼が苦笑いをまた浮かべると罪を悔いる人を赦す聖母のような慈しみ深い表情を浮かべながら、彼女はゆっくりとかぶりをふった。

「いまここから自分の目で海を見渡してみて、その気持ちのほんの少しをわかったような気がします」

 それから、遙か後ろにかすかに浮かぶ過去を見やるような瞳になってこちらを向く。

「あのときは、突然おしかけちゃって――」

「もう、謝らないでくださいね」

 彼女が頭を下げそうな気配を見せたので、先に制した。

「鍵を渡したでしょう?もう共犯です」

 彼女は目を丸くして、それからあの、無邪気な笑顔をたたえる。その表情を見ているだけで彼は嬉しくなってしまって、つい、

「ちょっと歩いてみませんか」

 もっと傍にいたいと思ってしまった。立ち上がった彼が手を差し出すと、

「はい」

 ダンスの誘いを受けるように、慎ましくその手を取って彼女もゆっくりと立ち上がった。


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