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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月14日
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7-1:学 校《黒板消しと罪人の戦線復帰》

    

  ◇  ◇  ◇


 あの日以来、近しい人間にしか分からないような些細な部分で彼という人間の振る舞いは変化した。言い換えれば、本質的な部分からがらりと変わったのではなく、その本質を覆い隠していた自らに対する嘘や臆病さを取り払おうと決意したのだった。

 そしてそれは日常のなかのありふれた場面にも現れた。


 移動教室から彼が戻ってきたときのことだ。

 何気なく教室の時計を見ようとしたときにまだ黒板が消されていないことに気づいた。日直は誰だろうかと日付の下の名前を確認するも、次の授業の小テストに向けて隣の生徒と一問一答を出し合っていた。日直だけでなく、ほとんどの生徒がそうだった。

 彼は手に持っていた教科書類を教卓に置いて黒板を消し始めた。その頭の片隅で、自分も〈努力家〉と同じような扱いを受けるのだろうか、と思わなかったわけではない。もしかしたら〈イケメン〉の仲間入りをすることになるかもしれない。・・・それはそれであいつはニヤニヤしながら歓迎してくれそうだけど。

 ともかく、そのときはそのときのことだろうというのが彼の考えだった。自分の決めたとおりに生きようとすれば傷を負うのは仕方ない。目の前のことだけでなく、その先に待つものを受け入れることを含めての覚悟であり決意なのだと思う。

 決して聖人君子のように達観することのできない、あくまでも凡俗な彼はそういうことをつらつらと考えながらも、やはり手を止めることだけはしなかった。

 するとすぐ隣から、

「ありがとね」

 振り返ると〈努力家〉の姿があった。

「これは俺が消しとくよ」

 礼を言われることにほんの少しだけ違和感を覚えた。まるでこれが自分の仕事というのが前提のようじゃないかと感じた。けれど、実際クラスを包む空気がそうなりつつあることも否定できなかった。

「大丈夫、ちゃんとバスの中で覚えてきたから」

 〈努力家〉は彼の言葉が次の小テストを懸念してのことと受け取ったらしい。そうではなくて「いつも大変だろ」と本当は言いたかったのを彼は飲み込んだ。今まであえて見て見ぬふりを決め込んできた自分はそんな気休めを言える立場にないのだ。

「一ノ瀬がそれ聞いたら卒倒するな」

 そうして彼女から感謝されるごとに彼は追い詰められるような息苦しさを味わった。自分はそんな感謝を向けられるに値する人間ではない。この人は俺のことなどなにも知らないのだ。本当は罰せられるべきなのに。誰かに褒められる度にそういうことが頭に浮かんだ。

 けれど、そんな面倒なことを言えるはずもない。だから彼はいつものようにただ笑うのだった。それを受けて〈努力家〉もはきはきした声で笑う。

「ありうる。でも〈罪人〉くんもこつこつやるほうじゃない?」

「どちらかというと、そうかも。でも最低限の宿題とかくらいだけど」

 互いに手を止めず黒板を見ながら言葉を交わす。人と顔を向き合わせないで話すということには独特の気安さがあった。

「いっつも見せてあげてるやつだよね。わたしもときどき見せてもらおうかな」

「いいよ。片桐さんの分も一ノ瀬にツケとくから」

 彼は本気でそう口にしていた。

 けれど他人がどう言おうと彼女が手を抜きそうにないことも感じ取っていた。すべてのことに熱中し、楽しみ、バイタリティの塊のように突っ走る〈努力家〉は、まるで最短で人生を駆け抜けなければ死んでしまう呪いをかけられて生き急いでいるようにすら彼には見えた。

 2人は2人ともそれがその場限りの冗談に過ぎないことを知りながら、それでも同じ言葉の上で戯れていた。おおげさな言葉は使いたくないけれども、そういう無意味さを積み上げていくことを平穏と呼ぶのかも知れない。

 そのとき何気なく見た、黒板を仰ぎ見る横顔が彼の心に住む誰かに似ていると気づいた。それが誰なのか思い出すのにそう時間はかからなかった。彼の頭の中は溢れ出す夕陽で満たされ、その中央には黄金の輪郭をともなった髪の長いシルエットが浮かび上がった。顔かたちや表情が似ているわけではない。どれもこれもばらばらで、けれど人としての成り立ちとでも言うのか。もっと奥まった根本的なところで似通ったものを2人は秘めているように思えた。

 彼はふと、あの幽霊のような不思議な少女のことを想像した。

 今頃彼女もそう遠くない進学校の校舎の中で決められた席について晴れとも曇りともつかない空を頬杖をつきながら眺めているんだろうか。それとも〈イケメン〉のように平日昼間からどこでもない場所をふらついているだろうか。いずれにしても知るよしもないことだった。

 彼女にも人混みの中のその他大勢と同じように、ありふれた生活があるのだとしても、それは幼い頃に頭の中でねつ造した記憶のようにどこかつかみ所の無いものとして彼の空想のなかを漂った。

 そうしているうちにも一応のところ黒板を消し終わる。

「ありがとね」

〈努力家〉が改めて礼を言うので

「いやいやこちらこそ。手伝ってもらったのは俺の方だし」

 実際、最初に着手したのが彼で後から加わったのが〈努力家〉なのだ。〈努力家〉は笑顔になってまた何かを言いかけたものの、チャイムがそれを遮った。

 それ以上はお互いなにか言うこともなく、それぞれの席に戻っていった。



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