6-9:ホーム《もはや傍観者ではいられない》
「てめえ怖じ気づきやがったか」
あくまで闘争心を剥き出しにする〈不良〉にも動じることはない。〈ガリ勉〉は冷静に、道理を解さぬ者に説いてやる口ぶりで諭す。
「癪に障るが〈罪人〉の言うとおりだ。さっきお前が一方的に殴り倒すのができたのは先方があえて無抵抗を貫いたからであって、本気で止められにはいられれば、なかなかに厄介なことになる。お前も認めたとおり骨のあるしぶとさだからな。
仮に2人がかりで戦闘不能にしようとしたところで後ろに若竹さんが控えてる。〈罪人〉が自分の意思で立ち上がれなくなるほどの暴力が看過されるはずがない」
「あのおっさんも伸しちまえばいいだけだろ」
「――無理だ。新入りのお前は知らんだろうが、こんな場所じゃ住人どうしの争いなんてそんなに珍しくもない。中には先生や隼人さんに殴りかかるものまである。育ち盛りで手のつけようもない悪ガキたちが暴れるのを誰が収めてきたと思う?
若竹さんにはおれとお前が手を組んでも敵わない。まして怪我を負わされていてはな」
「んだよ、腑抜けと思ってたやつがちったあマシかと思ったら、手応えのありそうなてめえがとんだ玉なし野郎だったとはな」
「そこまで腕に覚えがあるなら1人で挑んでみるといい。そうか、たしかあれからちょうど2年ほど経ったのか――。おれもお前と同じ年のときに刃向かったことがあったのだが、いやはや、後にも先にもあそこまで力の差を見せつけられたことはなかったな」
「・・・・・・」
「なんにせよ、負傷したうえ若竹さんも駆けつけた時点で、こうなることは決まっていたようなものだ。一本とられたな」
それから、最初からこれが狙いだったのか?と問うような眼差しを投げかけてから冷蔵庫の製氷機から氷を取り出し始めた。あれだけの憤怒に駆られながらも合理性を見失わない〈ガリ勉〉の冷静さがこの場では運良く平和へと天秤を傾けたか――と彼が安堵の息をつこうとしたとき。
「安心しろ。もちろんこれで終わりにするつもりはない」
最後に物騒な一言を残したのだった。
決着を宣言する声には悪を退けることへの執念とでも呼ぶべき恐ろしさが籠もっていた。それから氷を袋に詰めて投げて寄こす。勝負が終わればノーサイドということらしい。
「いらねえよ」
けれども〈不良〉はそれをはたき落とし、頑として相手を容れようとはしない。
「そうか」
〈ガリ勉〉も強いて何も言わなかった。さすがの〈不良〉ですらその様子が事実上の休戦宣言と認めざるを得なかった。リングを降りた相手に追い打ちを掛ける主義でもない〈不良〉は、けれどもてあました鬱憤のやり場を求めており、目に見えて苛立っていた。
「・・・くそったれが」
一応日を改めて決着する約束を取り付けられたことも影響したのか、この日この場所での戦いを諦めて体中に溜め込んだものを発散するべくまた夜の町へと繰り出していった。
あの状態でまた喧嘩沙汰を起こせばさすがの〈不良〉とはいえボロ雑巾を免れないのではないか、そう思いながらも引き留めることも出来ず彼がなすすべもなく見送っているとそれまで黙って座っていた〈補助員〉が立ち上がった。
落ちている氷嚢を拾い上げて彼の右頬に当てながら
「ちょっと見てくる。悪いが片付けを頼む」
といって玄関に向かう。
後に残された彼は片手で氷嚢を抑え、もう片方の手で倒れたコップからこぼれた水を拭きながらながら、もうひとり残った〈ガリ勉〉の方を見る。
部活で身につけたのだろう、左手と口を使いながら慣れた手つきで器用に包帯を巻いている。手伝う必要はなさそうだった。
「さっきは悪かった」
彼は冷たく濡れる右頬の感触を少しだけ心地よいと思いながら切り出した。
「まったくだ」
ガリ勉は包帯を巻き終えて、その上から氷嚢を当てている。
「今回は不意打ちが成功し、偶然にも助けられたがこんなことがそう何度も起こらないのはわかっているだろう」
強いて彼をどうにかしてやろうというつもりはないらしいが、やはりガリ勉の目から見れば悪党退治を邪魔されたことになるのだろう。
「ああ、分かってる」
そしてその言い分を真っ向から否定するつもりも彼にはなかった。
「けど、今回みたいなことがあったら、やっぱり俺は同じことをするよ」
「見かけによらず頑固なところがあるんだな」
「建寛ほどじゃないさ」
氷嚢のおかげ、というわけでもないのだろうが、クールダウンしたガリ勉はいくらか穏やかさを取り戻して彼を諭すように語りかける。
「気持ちは分からないではないが、もはや綺麗事ですむ段階じゃなくなってるんだ」
その言葉は〈ガリ勉〉もまた今日の志を変えるつもりのないことを表していた。
と同時に、ガリ勉なりの正義によって貫かれているであろう自衛のための暴力という手段について、本人もそれが綺麗事ではないことを自覚していることも伝わってきた。
本人とて好き好んで人を殴り飛ばし痛めつけているわけではないのだ。それに彼は〈ガリ勉〉がなんども友好的に〈不良〉に話しかけ対話によって良好な関係を築こうとする努力も目の当たりにしてきた。そうして仲良くしようと心を開いてきた相手を、それでも正義のために心を鬼にして殴らねばならないと自らに命じた、この龍造寺建寛という人間の葛藤を少しでも自分は理解しようとしていただろうか――。
目の前のこの男はずっと長い間こつこつと努力を積み上げ皆のためを思い自分よりも強い意志と覚悟の元に行動しているのだという実感が胸に湧き上がる。それにつけて、その正義を妨害した自分のやり方についてもっとましな方法があったのかもしれないという悔いが芽生えてきた。けれど――しかし、それでも彼にも彼の信じるべきものがあった。
応急処置をすませた〈ガリ勉〉はキッチンから出て自室に下がろうとする。
その無言の背中に、彼は――
「あいつも」
どうしても声を掛けずにはいられなかった。
「大河も同じ気持ちなんじゃないかな」
彼の心にあるのは、獣のような男があのとき見せた花を踏みつぶすのを躊躇うような表情だった。あいつだって、人を殴り飛ばすのを好きこのんでやってるわけじゃないかもしれない。
ホームに来たときから見せていた苛立ちと怒り、憎しみ、それだけではない。孤独と、それからとても根深い不信感。どんな過去を連れてここにきたのか知るよしもないが、あの目の奥にある寂しそうに揺れるものは同じことを語っているんじゃなかろうか。
『こんなことをしたくはないけれど、綺麗事ですむ段階ではないのだと』
もちろんそうではないかもしれない。
つい空想に耽りがちな彼の目の錯覚、あるいは都合のいい妄想かも知れない。けれど、もしどうだとしたら。互いに同じ苦痛に堪え忍びながら、互いに不本意とすることに手を汚し、そうしてわかり合えたはずの人間が傷つけ合わなければならなくなる。
そんなことは――あまりにも悲しすぎる。
声を掛けられた〈ガリ勉〉が足を止める。そして振り返り彼の目をまっすぐに見つめる。それから分かり合えないものを見る目つきをしてそのまま去って行った。
「・・・・・・」
当座の目標は達成できたはずだった。最悪の事態は願ったとおりに避けることが出来たはずなのに。目の前にあるのは気休めにもならない戦果だった。彼の胸によぎるのは寂しさと、虚しさと、尽きることのない自身に対する問いかけだった。
(本当に、本当にこうすることしかできなかったのか――?)
さきほど心地よく感じていた氷の冷たさが皮膚の神経を鈍らせ痛みを少しずつ麻痺させていく。それに気づいた彼は氷嚢を抑えていた手を離す。その胸中には冷たく燃える炎のような新しい覚悟が灯火となって心を照らしていた。
(――この痛みに向き合わなければならない)
それも、自分のものだけではない。この事件に関わるあらゆる人間の過去と現在と、それから未来の痛みにまできちんと目を向け、けっして瞳をそらすことがあってはならない。
やがて、一応の沈静化を確認した3人と1匹が避難先の子ども部屋からおそるおそる出てきた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
まっさきに駆けつけてきた〈妹〉が不安そうな目で見上げてくる。〈旦那さん〉は彼に応急箱をもってきてくれた。
「ありがとう。それと、怖がらせてごめん。でも今日の所はひとまず終わったよ」
ひとまず今日のところは、という最後が彼の中で強く響いた。これからはもう自分は傍観者ではいられなくなるのだ。争いのまっただ中にこの身をさらし、地面に突き立てた志の旗も絶えず荒れ狂う波に脅かされる。
それでも――、と彼は思う。決して打ち倒されることなく、誰をも打ち負かすことなく、あくまで中立を貫かねばならない。そんなことができるのだろうかなどとは今さら問わない。力を尽くし、できうるすべてのことをやるだけだ。