6-7:ホーム《決定的な亀裂と崩れ去る日常》
〈不良〉と同じく彼の妨害によって右手に怪我を負わされた〈ガリ勉〉だった。それまで当然の報いと思っていたのか傍観していた態度を一転させて止めに入る。
その声には行き過ぎたギャング仲間の暴走を諫めるようなニュアンスが含まれていた。少なくとも、互いに拳で決着をつけるという点において合意している両者は、ある意味では同じリング上の好敵手であり彼を闖入者と見ることに関しては全く同じ見識をもっているのだろう。
それでも〈不良〉はその手を緩めない。すると今度は
「なにやってるのよ、やめてって言ってるでしょ!」
〈妹〉の悲痛な声だった。直後に足音もする。不良の大きな身体に隠れて見えないが、どうやら目の前で兄が殺されかけているのを見せられてたまらず駆けつけてくれているらしい。
彼はそれまで死んだようにぶらさげていた左手をあげて開いた手のひらを〈妹〉のいる方へ向ける。来るな、というサインである。
「なんで――そういうこと言ってる状況じゃないでしょ!ねえ、タツヒロも早くなんとかしてよ!」
その嘆願が響いたのか〈ガリ勉〉もこちらの方へ近づいてくる。
「このままだと本当に死ぬぞ」
「・・・・・・」
それでも緩まない。締め付けられている首から上はとうとう予断を許さない状況になりつつあった。行き場を失った血が逆流でもしているようなぐらぐらした感覚と、頭のすべての血管が破裂しそうな圧迫感が蓄積されて意識がうつろにっていく。
これはいよいよまずいんじゃ、いいや、まだだ、あと、もう少し――。そして、一瞬遅ければで糸の切れた人形のように彼の全身から力が抜けそうなその直前に、首の圧迫が解かれた。
「――――っ、は」
たまらず彼は背中を曲げて激しく咳き込んだ。そうしていつまでも咳が続きそうなのを無理矢理におさえこんでどうにか少しずつ呼吸を整えていく。せき止められていた血の巡りが再開し、酸素が全身へ行き渡っていく感覚がする。だんだんと頭の中が落ち着きを取り戻してすっきりしてくる。
彼は再び背筋をまっすぐに戻ししゃんとするやいなやまず〈妹〉の方を向いた。
「ありがとう。それと心配かけてごめん。でもほら、ちゃんと生きてるから。学とフォルテを連れて部屋に戻っておいで」
それでもまだ容易には立ち去りがたそうな目をしていた妹だが彼が目で促すとしぶしぶソファへ戻る。それから、いまだにしくしくしている〈わんぱく〉の手を取って彼の言うとおりに子ども部屋へと向かっていった。
その後彼はちらりと〈旦那さん〉の方にも目線を送る。アイコンタクトで気づいたのか、〈旦那さん〉も子ども部屋のほうへとさがっていく。それらをすべて見届けてから、改めて目の前に立ちふさがる壁のように大きなガタイを見上げる。
その様を暗い目で無言のまま見下ろしていた〈不良〉がようやく口を開く。
「なんで何もしてこねえんだよ」
彼の無抵抗に対する疑問だった。〈不良〉自身の口から質問を引き出せたことに彼は手応えを感じた。
いきなり割って入って聞かれもしないのに自らの意見を表明したところで、それはほとんど押しつけにしかならない。まずは言葉ではなく態度によって立場を示し興味をもってもらうところまではどうにかこぎつけることができた。
「勝ち負けを争う気がないからだよ。それに、加減を知らないほどの馬鹿じゃないとも思ってた」
ここではあえて「人を殺すほど悪いやつだとも思わない」という言葉を飲み込む。その手の言葉に〈不良〉が猛烈な嫌悪と敵意を抱いているのは目に明らかだ。それに、相手の心に届くほどの信頼関係を築いてから、あるいは少なくともその土台が整ってからきちんと伝えるべきだろう。
「知った風な口をききやがって」
再びあの左手が、今度は彼の胸ぐらをつかもうと伸びてくる。
「それと」
それにも構わず声を発する。
「さっきもうひとつ聞いたよな。『てめえ、いったいなんのまねだ』って」
「――――」
「見ての通りさ。止めにはいってる」
彼は自らが腕力の上で圧倒的不利であることを知りながらも〈不良〉の目の前でしゃんと立ってみせる。もとより相手を打ち負かすつもりのない彼にとっては、力の優劣そのものがなんら意味をなさない物だった。
彼にとって重要なことはたったひとつ。このホームで起こる不毛な争いをどうにか丸く収めることなのだ。その2つの瞳は臆することなく〈不良〉の瞳の中にあるものを見つめていた。
それを黙って睨んでいた〈不良〉が黒い笑みを浮かべて口を開く。
「思ってたより肝っ玉あるじゃねえか」
〈ガリ勉〉は彼の危機に一度口を挟んだきり、また傍観に立ち返ったらしい。理由はどうあれ、こうして一対一の状況に恵まれたのはありがたいことだった。彼は〈不良〉の言葉に毅然として応じる。
「逃げるつもりなら最初からこんなことしやしない」
それに、もう十分すぎるほど逃げてきた。そうしてやっと気づいたのだ。逃げられる場所などはじめからどこにもありはしない。そもそも逃げる必要もなかったのだと。
「安心したぜ、腑抜けたやつを殴っても面白くねえ」
そう言うが早いか、早速あの左手、堅く握られた拳骨が彼の右頬を直撃する。思わず左側に倒れかかったところへ、今度は腹に膝蹴りを見舞われる。
「――――」
容赦ない責めの最中、けれど彼の脳裏にはひとつの疑問が湧いた。そこへ今度はうなじへと肘鉄が落とされる。たまらず床に倒れ伏した彼は、けれど再び四肢に力を込め立ち上がろうとする。すると、
「青春してるみたいだな」
という声。2階からようやく降りてきた〈補助員〉だった。それに気づいた〈旦那さん〉が子ども部屋から飛び出してきて
「なに呑気なこといってるんですか。早く止めてください」
けれどその切羽詰まった声もさして気に掛けていない風な態度で
「男同士たまに喧嘩するくらいが健全です」
というと、そこへすかさず〈ガリ勉〉も便乗して
「その通りです、助太刀不要」
とあっさり介入を切り捨てる。
「え・・・?いや、でも・・・ほら、小さい子たちも見てるし」
「不都合なものを覆い隠すのが正しい教育だとは考えません」
冷静さのなかに冷徹さを秘めた迫力で言いくるめられた〈旦那さん〉はもう言葉を継げずにしょんぼりうなだれる。すると今度はとってかわって〈妹〉が抗議を申し立てる。
「いやいや、意味わかんない。それどころじゃないでしょ!?一方的に殴られてるんだよ。さっきだって首締められてたし」
それに応じたのは〈補助員〉だった。問い詰める〈妹〉の方を向き、腰をかがめて目線を合わせてから穏やかに諭す。
「たしかに喧嘩なんざあって嬉しいもんじゃないが、まったくないのも異常なもんだ。・・・まあなんだ。とめなきゃいけない喧嘩ととめちゃいけない喧嘩があるというか、いざというときはなんとかするさ。力ずくでもな」
という。
「あいつだって助けてくれとは言ってきてないんだろ?」
「・・・それは」
「まああいつなりに考えがあるんだろう。信じて見守ってやればいい」
それから〈旦那さん〉を扉の向こうに押し込めて
「ご主人は、子どもたちを頼みます。自分はヤンチャ坊主どもを見張りますので」
「本当にとめてくれるんですよね」
「まかせてください」
と言って引っ込もうとしたが、〈旦那さん〉の未練がましい顔を見て付け足す。
「子どもたちでケリをつけられることなら大人が口出しするのは野暮でしょう。できることを奪ってやるんじゃなくて、手が足りないときに貸してやるのが自分の仕事なんです。そのときが来たらちゃんとやりますから」
もう十分と扉を閉め、ソファに陣取った。