2-2:学 校《昨晩の邂逅の回想》
* * *
昨晩の廃墟。彼が彼女に声をかけた直後のことだ。
目の前には、驚きと恐怖のために凍りついた顔面蒼白な女子生徒がいる。
うかつな言葉を吐いてしまえば、ささいな刺激によってこの平衡がガラスのように砕け散ってしまいそうな危うさと緊張が2人の間に立ちこめていた。
沈黙が重く降りつもるほどに、それは気まずさとなって凝り固まり余計に不安と焦りを駆り立てていくような感じがして身動きできない。
彼は薄氷の上を歩く気持ちになり、慎重にかけるべき言葉を探りながらも、慎重になりすぎるあまりになにも行動を起こさないことが破滅する時をただ手をこまねいて待っているのと変わらないことにも気づいていた。
つまるところ。
ある程度の覚悟をしたうえでこちらから口火を切るしかないということだ。
それも、できるだけ丁寧に、穏やかに。
「その……驚かせてしまって、すみません」
とりあえす、思いつく中で一番無難に思える言葉を口にする。
けれど、目の前の凍り付いた彼女は時がとまったみたいになんの反応も返さない。意思疎通ができているのかは疑いが残る。とはいえ、それも理由を理解できる範囲にあるし叫び声をあげられてないだけありがたい状況だろう。
「驚いて怖がるのも無理はないと思います。それで、無理はないから警戒しながらでもいいから、一応聞いてもらえると助かるって思いながら話すんですが……」
相手の反応を待ってもしょうがないと判断して、一方的に話し続けることに決める。
いったん息を吸い込んでから、早口にならないようにしないとな、と気をつけて話し出す。
「俺は、この廃墟を気に入ってるんです。だから、できるだけこの平穏を保ちたいとも思ってます。自分も立ち入り禁止を無視して入ってきている手前他人をとやかくいう資格はないんですが、君が1人で入ってきたと気づいたときにはすごく焦ったんです。なんでかって言うと――」
ここでいったん口を閉じる。これから口にする内容は、少々扱いに注意を要するからだ。言葉はオブラートに包む必要があるものの、遠回しすぎても伝わりにくいだろう。
彼は逡巡して、次のように表現してみた。
「君がここに来た理由が、富士の樹海にはいるのと同じ理由だったら困るからです」
それでも反応がない。けれど仕方ないので話を進める。
「もし、そうじゃなくて、深い意味がなかったなら、許してください。言い訳をさせてもらえるなら、こっちだって決めつけたいわけじゃないんです。ただ、もしそんなことをされてしまうとかなり大変なことになるんです。最悪の場合……」
またも繊細さを要する話題に直面する。が、そんなのはもう、今さらだろう。
「君に勝手に死なれたせいで俺が人殺し扱いされてしまうかもしれません」
「・・・・・・」
こんなことを言っても、やはり何の反応がない。
相手はただただ驚いて固まっているいるばかりだ。
――なんだか、だんだんバカらしく感じ始めてきた。
一生懸命、細心の注意を払ってあれこれ気配りをしているつもりのではあるけれど、こうも反応がないと、骨折り損をしてしまったような気持ちになる。
(ただまあ、ある意味でこれは好都合かもしれないな)
彼女がもし二度と朝日を見るつもりもなくここに足を踏み入れたのだとしても、ここまで想定外の恐怖というものを突きつければ――彼の意図したことではないにせよ――本能的に生きていたい、無事に帰りたいと思いやすくなるだろう。
それなら、彼女が生きて帰るのであれば、さらに言えばここに二度と立ち寄らなくなるのであればそれは彼にとっても大いに好都合だった。
「俺には命を大切にしろだとかご両親が悲しむだとかそんな月並みな説教するつもりはないんです。君だって自分の考えなり、いろんな思いがあるだろうし頭ごなしに人の人生に口出しする趣味もありません。
あくまで、俺が困るから、もしそのつもりがあったとしてもここではやめてほしいとお願いしてるつもりなんです」
すると、彼女の瞳が息を吹き返したみたいに、何かをその内に宿らせた。
「・・・・・・?」
しかし、彼女はやはり唇はあくまでも沈黙を守り続ける。
気のせいだっただろうか。
彼は彼女の心にどの言葉が触れたのか、どんな作用を及ぼしたのか確かめたかったが、そのすべはない。強いていうなら、さきほどまでの怯えの気配は、なんとなく和らいだような気がしなくもない。しなくもないが、根拠もないので思い違いかもしれない。なんにせよ、だんだん一方的に喋り続けるのもイヤになってきた。
「――とにかく。一方的にしゃべってすみませんでした。言いたいことは言ったので、もう帰ります」
彼は、どうにかして別れの挨拶までたどり着いた。
本当に長かった。ほんとうに、ほんとーに長かった。
「・・・・・・」
結局、最後まで彼女は一言も言葉を発さなかった。
(・・・・・・やれやれ)
彼はきびすを返し、ドアに向かって歩き出す。部屋から出ると、少しだけ空気の匂いがかわって、あることを思い出す。
「そうそう、煙草を吸うのも勝手ですけど、火の始末はきちんとお願いします。今度こそ、さよなら」
入口から顔だけひょこっと出して、彼女が口から落とした煙草を指さす。返事の帰ってこないのはもう諦めて彼は凍り付いたままの彼女を残してその場をあとにした。
階段を降りていく。今度は彼女のではなく彼の靴音が響く。背後は相変わらずの無音。
そのまま無事にビルの外までたどり着いて、ようやく一息つく。さっきまではなんだかんだで、空気が張り詰めていて落ち着かなかった。
今日はあまりにもイレギュラーな一日だった。
彼の日ごろから大事にしている平穏はこんなにもあっさりと打ち砕かれるほど脆いものだったと気づかされた。なにより、すっかり疲れてしまった。
「・・・・・・」
それにしても。
いまだに彼女の靴音は響いてこない。建物ごと眠りについたみたいに静かだった。
(まさか本当に死ぬつもりじゃないだろうな)
どんな事情があって――と考えたとき、彼の人生に突き刺さった記憶の破片とそれが生む痛みが彼を苛んだ。
(俺も人のことは言えないか)
だがもう、これ以上はどうすることもできない。あんな状態の人間を放っておくことに不安や迷いがないわけではない。けれども自分が出て行ったところで、どうすることもできない。
何か悩みがあるのだとしてもそれを癒やすことも肩代わりすることも出来ない。そもそも頼まれてすらいないのだから。
素人の横やりは、そうして自己本位の押しつけがましい親切は、たいていの場合よくない結果をもたらす。
そう簡単に人の気持ちを変えることなどできないのだ。
もし彼女が深刻に思い込んでいるのなら、なおさら会ってたかが数分の人間が出る幕じゃない。下手に関わるだけ余計な刺激を与えて、感情の暴発の原因となってしまうかも知れない。
たとえ見て見ぬふりをして放っておくことが、我が身可愛さの臆病で無責任な選択だとしても、明確な模範解答が見つからないまま複雑な人の心に踏み要ろうとは思えなかった。
それは明かりも後戻りするためのロープもなく迷宮の中に踏み込んでいくくらい愚かだ。
(たぶん、俺が本当に帰ってるのか上から見張ってでもいるんだろう)
なんにせよ。帰ると言い残した以上、ここは言葉通り素直に帰宅するのが一番だろう。彼はあきらめて家路についた。
夜の海はそこはかとなく不気味だった。なんとなく底知れなくて、見通しがたい感じにぬらぬらと表面だけが光っている。海中に得体のしれない生き物がいて、その何者かに見つめられていそうな感じもあった。それなのに、白々しいほどなにごともなかったかのように波が寄せては返している。
伸び放題の植物たちも夜だけは春に向けた準備の手を休めているみたいにひっそりとしている。それらを空の上から見つめる月は鋭い切っ先のようにほっそりとしていた。
彼は立ち止まって鞄の中から、廃墟での暇つぶしのために持ち歩いている『天体まるわかり大百科』を取り出した。それによるとあれは「朔月」という名前で新月の翌日に見られるものらしい。つまり、これからまさに満ちていく月なのだとか。
(だからなんだって話なんだけど)
彼は再び図鑑を鞄にしまう。
心なしか、以前よりもあたりはより甘い匂いが濃くなっているように思われた。
まぶたに焼き付いたあの少女の残像のせいだろうか。
この廃墟は、街よりも一足早く春の息吹で満たされていくようだった。