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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月20日
39/106

5-16:廃 墟《希望が生んだ名前》


「よかった。〈樹〉くんが育ててくれるならこの子も安心ですね」

「だといいんですが。まだまだこれから勉強していかなきゃいけないところなので。

 『この人間に拾われてよかった』って思ってもらえるように頑張ります」

「それだけ一生懸命に自分のことを考えてくれる人に出会えたんです。

 この子はきっともうしあわせの第一歩を歩き始めてるんだと思います」

 そう改まって褒められると彼はどう答えていいかわからず、自分でも顔が赤くなっていくのを感じた。ただ、普段のように追い詰められたような苦しさや不当に評価されたような罪悪感はなかった。

 いつもよりかずっと素直にその信頼のようなものを受け取ることができた。そうして自分でも、自分の中に流れるあたたかいものを信じようと思い始めていた。

(これからはこの子犬とともに暮らしていくのだ――)

 そう思うとひとつ気づいたことがある。

「そうだ。この子犬を迎え入れるためにあとひとつだけやらなきゃいけないことがあります」


「それって――」

「はい、〈希〉さんにお願いしたいと思います」

「私でいいんですか?」

 問いかけるまなざしにゆったりと頷く。

「ぜひ、この子犬の名付け親になってあげてください」

「でも――私、ほとんど何もしてませんし」

「何もしてないなんてことないですよ。〈希〉さんが部屋を見たいといわなかったら、たぶんあの扉を開けることもなかったですし、この子犬と出会うこともありませんでした。そしたらこの子はきっと助からなかった。〈希〉さんが救った命でもあるんです」

 それに、と彼は笑って付け足す。

「〈樹〉って名前、実はけっこう気に入ってるんです」

 彼女もそれを聞いて笑顔になった。 

「そういうことなら、頼まれました。どんとまかせてください」

 と、胸を張る。

 それから真剣な面持ちで子犬をまっすぐに見つめる。

 主に墨のようにつややかな黒色を基調として、その周囲は入道雲のように白い。それから眉と呼んだらよいのだろうか、目の上と両足のところが麦茶のような鉄錆色をしている。

 まだまだ黒豆と呼びたいほどの子犬なのでいかにも可愛らしい。つい守ってあげたいくなってしまうような風貌で、とろんとした眠たそうな目をしばたかせている。予防接種の影響なのだろう。

 するとじぃーっと見つめていた彼女が、何か整った噺家か落語家のように切り出した。

「ひらめきました」

「お聞かせください」

「それはすばり――」

「・・・はい」

「フォルテという名前です」

「おお・・・」

 それを聞いていい名前だと、まず思った。

 しゅっとして俊敏そうな、それでいてしなやかな強さを感じさせる――

「あ、そういうことか!」

 そこで彼もようやく彼女と同じひらめきを得た。

「フォルテ!『強く』ってことですね」

「はい」

 彼女はあの、まぶしい満足そうな笑顔を浮かべる。

「楽譜の記号からとったんです。この子を見てたら、黒塗りのグランドピアノが思い浮かんだので」

「さすがピアニスト」

 彼は名前に深く感じ入ってうんうんと何度もうなずき

「えへへ、それほどでも」

 彼女は、はにかみながらおどけてみせる。

「なんにせよ、これで一件落着ですね。ここからが本当のスタートなんですけど」

「ときどき成長記録みせてください」

「もちろん」

 彼は、いつの間にやら眠りの森で夢を見ている子犬の頭をそっと撫でる。

「これからよろしくな、フォルテ」

 愛おしみ深く、優しい声でささやいた。

 彼は、そのとき自分がどれほど優しい表情をしていたのか、知るよしもない。

 たかが子犬1匹のために愚直なまでに葛藤し苦しむことができる彼がそのとき初めて見せた、くらべるものがないほどのあたたかな表情を。そこには新たに迎え入れる家族へのまぎれもない愛情が溢れていた。

 窓の外では、ちょうど燃え尽きた線香花火をバケツに入れるときのように水平線の向こうへと夕日が沈みゆくとところだった。それを追いかけるように茜色の空が海の方へと傾いていって、それと同時にだんだんとあたりが青みを深めていく。

 その夕焼けと夜のうつりかわりゆく境目に紫色の銀河が流れ始めた。目を覚ました星々の明かりが紫水晶の空に灯り始めて、雨に磨かれて透き通るばかりに冴えかえった大気が送る風の中には五月を目前にしたみずみずしい若葉のあおい爽やかさが感じられた。

 遠く海の方から眺めると、人の気配の途絶えて静まりかえった廃墟の中に光が見えた。それは、沈んだはずの夕陽の色に似たあたたかいカンテラの光だった。廃ビルのある窓から流れ出すその光が、周囲を包んで流れる闇の中を少しだけ溶かしていた。



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