5-3:廃 墟《雨音と彼女との他愛ない雑談》
* * *
それから2人はビル内を巡ることになった。
雨雲に太陽が隠されて、壁中がカビで覆われているかのような薄暗さが立ちこめていたため、彼はカンテラを持って行くことにした。
「・・・」
が、火をともそうとマッチをすっても、なかなか点かない。
湿気っているせいだろう。するとそれを見ていた彼女が、
「これ、使ってください」
スカートのポケットから取り出したのはライターだった。
赤く透明な、どこにでもありそうな100円で売られてそうなもの。
「ありがとうございます」
それを使うと今度はすんなり着火できた。
ランプの芯に光が灯って、どこか懐かしさを感じさせ、あたたかみのある光がぼうっと辺りを照らした。狭い部屋の壁が強すぎない光で包み込むよう染められる。燃料は十分に入っているため、これで今日一日は問題なく使えるだろう。
「・・・なんにも言わないんですね」
ライターを返してカンテラを満足げに眺めている彼に彼女が声を掛けた。
彼が振り返ると、やや不思議そうな面持ちで
「わたしが煙草吸ってること」
と言うので彼は、なんだそんなことか、と思いながら
「何か言った方がよかったですか?」
と聞いてみた。
「いえ、そういうわけじゃないですけど」
「変な人だなって?」
「・・・はい」
それ以上は強いて質問を重ねなかったけれど
どこか物知りたそうな顔をしているので、彼は一応話すことにした。
「俺がやめろと言わなくったって、なにがいけないかくらい〈希〉さんだってわかってるでしょう?」
「それは、まあ」
「だから何か言う必要は無いんです。それに、煙草の煙くらいなら全然気になりませんし」
彼は、自分の素の弱みを見せるような気恥ずかしさや、ふだん曖昧なままにしておく負の感情を改めて言葉にするときに伴う、自己認識の痛みを伴いながら打ち明けた。
「もっと嫌な物がそこら中に溢れてますから。電車やバスの中にも、教室や家の中でも」
あえて、彼女がどんな顔をしているのかは見なかった。
彼は自分の抑制が少しずつ緩んできていることに不安を感じた。外部に出すまいと何重にも覆い隠してきた物がふっと漏れ出してそのへんを漂っているような居心地の悪さがあった。
そうして緩んでしまったために、自分を縛ることによって保たれていた均衡が失われ自壊していくのではないかという、諦めに似た予感があった。
(言わなくてもいいことを言ってしまったな)
失態を犯した自分への自嘲と、気まずい空気を誤魔化すための方便として彼はいつものように微笑んだ。けれど常よりもいくらかきまり悪かった。
「雨の日に暗い話をするもんじゃないですね」
「いえ、そんな・・・」
しとしとと雨の降る音が沈黙を補ってくれるのがありがたかった。
彼はふと、カンテラの明かりに照らされた自分の顔がどんな風に彼女の目に映り、どのような影が壁に投げかけられているのだろうかと気になったが、
「つまらない話をしました」
彼はさっさとこんな話は切り上げてしまいたかった。
「よし、明かりも確保できたし、それじゃあ行きましょうか」
努めて明るく振る舞うと
「はい」
彼女もそれ以上はなにも聞いてこなかった。
それからいくつかの部屋を見て回る。
ドアが蹴破られて鍵が必要ないところもあれば、彼が鍵を持っていない部屋もあった。開ける度に明らかになる部屋の中身はどれもそんなに大きな違いはなかったが、それぞれになんらかの痕跡を有しており、ありし日々を偲ばせるものがあった。
「ここか一個下の階だと、こっちに面してる部屋は海がよく見えます・・・・・・っていったら、なんだか物件の内覧みたいですね」
彼が見終わった部屋の鍵を閉めながら話すと、彼女もそれに乗ってきて、
「家具備えつけの部屋はありますか」
「ありますよ。冷蔵庫だけ4台置いてある部屋なんですけど」
「ここって電気通ってないですよね」
「もちろん」
「なんでそんなものを」
「趣味、なんじゃないでしょうか」
「趣味・・・・・・奥が深いですね」
「まったくです」
2人は部屋を見て回りながら、ひとつずつ階を降りていった。
「ちなみに中にはなにがはいってたんですか、その冷蔵庫」
「まだ見たことないんですよ。扉をガムテープでぐるぐる巻きにしてあったので、そっとしといたほうがいいのかと思って」
「へえ・・・・・・。あのピアノといい、色んなものがここにはあるんですね」
「そのうち〈希〉さんも、なにかここに持ってきたくなるのかも」
「巣を作るビーバーみたいにですか?」
「ビーバーって実はすごい建築家なんですよ。今は手元にありませんが今度その図鑑お見せしましょうか」
図鑑のこととなるといつもより前のめりに話す彼に彼女は目を細めながら、
「ありがとうございます。そういえば〈樹〉くんは図鑑好きなんですね。この前も書店で見てましたし」
「それは――あれです。趣味というやつです。〈希〉さんはなにが好きですか」
「うーん、私はピアノくらいしか――」
そうしてしばらく当たり障りのない話が続いた。