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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月20日
25/106

5-2:廃 墟《彼の心に住み始めた隣人》


  ◇  ◇  ◇


 あの花見以降も、彼と彼女は2人で何度か廃墟を巡った。

 そのうち、はじめはつい早歩きな彼が置いていきがちだった彼女とも自然と横に並んで歩くようになっていった。歩幅や息が合うにつれ足並みがそろっているのに気づいた頃には、彼も彼女の昔話につられて自分の過去の話をすることへの抵抗が少なくなっていた。

 なんの映画も上映されることがない映画館を訪れたときには、お互いに初めて観た映画のタイトルを教え合った。マネキンだけが立ち並ぶショッピングモールを歩きながら、彼は幼い頃の夢がショッピングモールを貸し切ってみんなで鬼ごっこをすることだったことを、はにかみながら打ち明けた。


 それは年頃の男女のデートと呼ぶにはあまりにも淡泊だった。

 甘酸っぱさやきらびやかさも欠けていた。

 それどころか、彼は彼女との距離が縮まっていくのを感じるほどに切ない孤独が浮き彫りにされていくようだった。けれど、彼は他の付き合いが長いどんな人といるよりも、さらには自分ひとりでいるときよりも自然体でいられるように感じた。2人の間の決して埋まることのない溝も、満たされることのない空洞すらも彼の必要とする適度なよそよそしさのために、かえって打ち解けて気安かった。


 彼は、静けさの中に他人といてこれほど苦にならなかったのはいつ以来か思い出そうとした。

 それほどまでに、すわりの悪さを内包した居心地の良さは乾いてひび割れた心の亀裂にまどらかに沁みいった。自分の身体によく馴染む水質の河川に巡り会った魚のように、彼の心には淡い快活さが湧いた。


 それだけに、この日が雨が降ったために探索に出かけられないことはいくらか残念な感もあった。

 それでも不満はなく、ブリキのじょうろで窓辺の鉢植えに水をやった後、彼は長らく中断していた日課を再開することにした。彼女と過ごす時間が彼の中の楽しみになろうと、こうして1人で過ごす時間も、これはこれで彼にとってかけがえのないものだった。

 ただ――

「ん。・・・ないな」

 近頃は図鑑も読まず、彼女と探索ばかりしていたから、持参するのを忘れてしまっていたらしい。彼はそのとき初めて、彼女という人間が自分に与える影響の大きさを感じた。

 彼は鞄を閉じて本棚の中から予備として置いていた『苔の世界』を取り出した。

 雨を避けていつもより窓辺から遠ざけたソファに腰掛けて図鑑を開く。するとなんだか心に調和がもたらされたような落ち着きがある。やはり図鑑はいい。雨もいい。雨の日に好きな物を読むのはとてもいい。雨に濡れるのは嫌いだけれど、雨音というのは大変に風情がある。


 彼がひとり、他人には理解されない満悦に浸っていると、すっかり聞き慣れた靴音が階段をあがってくる。

 たぶん挨拶に来るだろうと彼が出迎えに立ちあがると案の定、扉が控えめにノックされた。


「はい」

 彼が応じると、控えめにドアが開かれる。

 こんにちは、と声を掛ける彼に彼女もこんにちはと返す。

「あ」

その顔を見て彼はあることに気づいた。

「今日は雨ですね」

「・・・・・・? そう、ですね」

 しまった、大事なことを失念していたと頭をかく彼の言葉の意味を掴めずに、彼女が首をかしげる。

「〈希〉さんに鍵をお貸しした部屋、天井に穴が」

「あ」

 それで彼女も合点がいったらしかった。

「雨の日は、ちょっと過ごしにくいですね」

「はい。あの部屋、一応屋内ですけど、今はたぶん野ざらし雨ざらしなので屋外とほとんど変わらないと思います」

「部屋の中にいて野ざらしって、ちょっとした謎々みたいですね」

「そうですね、もう、屋内という語の定義が液状化しちゃってます」

 もし彼女がこのまま廃墟に通い続けてくれるのなら、やがてくる梅雨のことも考えておかねばなるまい。となると――。

「今後も雨の日はあるでしょうから、他の部屋の鍵もお貸ししますね」

「いいんですか?」

「はい、このビルでよければ、ですけど」

 これまでの散策で彼女が自分の心にとまる場所を、ここ以外に見つけたのならば、それはそれで喜ばしいことだ。こんな人の訪れの途絶えた僻地に来てまで誰かの顔色を窺ったり、許可を求める必要など無い。行きたい場所に行き、気に入った建物に居ればいい。

 けれど、彼女は子どものようにかぶりを振って

「ここが、いいんです」

 と弾んだ笑顔を見せた。



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