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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月20日
24/106

5-1:学 校《罪人の理想と挫折》


  ◇  ◇  ◇


「あーあ、来週からは毎時間授業か~」

 今週で健康診断と身体測定が終わったことを〈イケメン〉がぼやいている。

「当たり前のように早退する一ノ瀬には関係なくない?」

「ちっちっち、登校するモチベが変わってくるのよ」

 と、早速帰りの支度をしながら持論を貫く。

「あ。それよか、測定する度に背が縮む方が問題だなあ」

「今年何センチって言ってたっけ?」

「おいおい、紳士に身長きくのはよろしくないよ」

「女の子の体重みたいに言うなよ」

 そんなことを話していると、近くから

「あ、片桐さんちょっと待って、まだ写し終わってない」

 という声が聞こえてくる。

 見ると、もう〈努力家〉が黒板を半分消し終わっているところだった。黒板の上の時計が示すところによると、次の授業まではもう3分もない。

「あ、ごめんごめん」

 気さくに返す〈努力家〉。

 そもそもまだ日直の当番はまだ男子の順を巡り終わってないのだが〈努力家〉は人が消し忘れているのに気づくと率先して消している。

 それを見るとたいていの人なら、気が利く人、で済ますのだろうが自意識過剰な彼はそれを見るだけで劣等感を覚えた。


  *  *  *


 かつて彼も〈努力家〉のように進んで行動していたことがあった。

 ひとつは少しでも善行を積んで自分の罪悪感を軽くしようとする利己心ともうひとつは尊敬する人物に少しでも近づこうとする純粋な憧れのためだった。心がけて明るい言葉を口にし、考えも振る舞いも同じようにした。


 最初の内、彼が善かれと思ってしたことに周囲の人も感謝を返してくれている間は彼もまだ謙虚であるよう注意しながらも、内心では誇らしい気持ちがあった。けれども今の彼がすでに思い知っているとおり、そんなことは長くは続かなかった。

 彼が「善意」のつもりで始めたことは、回数を重ねる度に浸透していって当たり前とされるようになっていった。しだいに感謝の声は小さくなっていったが、そもそも報酬目当てではないのだからと彼はその後も行動を変えなかった。

 それだけならばよかったものの、「善意」で行動しており誰にも損害を与えているわけではないと思っていた彼には「媚びを売る」とか「八方美人」という言葉が礫のように投げつけられてまだそのとき柔らかく感じやすかった彼の幼い心を痛めつけた。

 そんな言葉をかけられるということは、自分は何か悪いことをしているのだろうかと彼はそのときに初めて自分の動機や行動を疑った。けれども答えが見つからなかったため、やはり行動を変えなかった。そうしてまだ、そのときには彼に優しい言葉をかけてくれる人もおり、

また彼の受けた仕打ちを不当だと肩を持ってくれている人も居た。彼は、そちらの声の方を信じることにしていた。

 問題はその後に起こった。

 彼がそのころ友だちと思っていた人間がたびたび過剰に彼に甘えてきた。

 なにか苦労があってのことだろうと思って彼は自分にできる範囲で手助けをした。するとそのたびに、要求はエスカレートしていき、あるときさすがに彼は耐えかねて、その人のことを嫌いではないが少し甘えられすぎていると感じていることを伝えた。するとその人物は呆然とした表情で、

「〈罪人〉が人間になった・・・・・・」

 とぽつりともらした。

「・・・・・・え?」

 彼はその意味をつかみかねた。嫌みの類かとも思ったが、とてもそうは見えない。本当に信じるものに見放されて放心していると言った有様だった。

「人間にって、じゃあそれまで俺はなんだったのさ」

 彼がそう聞いて、返ってきた言葉が、今度は彼を呆然とさせた。

「神様か仏様だと思ってた・・・・・・」

 なにを馬鹿なと彼は笑いたかった。嫌みのほうが何倍もマシだった。

 けれどなんど疑り深くそのガラス玉のように色を失った瞳をのぞき込んでもどこにも彼の期待している物は見つけだせなかった。今度は彼が呆然とさせられた。

(じゃあお前は、自身のことをなんだと思ってるんだよ)

 ただの一クラスメイトの、誰にでもあるありふれた欠点や弱さや限界に見て見ぬふりをして、救世主の願望や期待を押しつけるのが人間とでもう言うんだろうか。そんな肥大化した欲求をもてあました挙げ句、自分のような凡人を盲信することが人間のやることだとでも思っているんだろうか。


 と、そこまで考えて、ふと自分が相手にばかり責任を求めていることに気づいた。

 もしこれが誤解であるとするなら、自分も誤解を与えるような真似をしてしまったのだろうか。自分がよかれと思ってやってきたことが結果としてこの人物に過度な期待や幻想を抱かせる原因になってしまったということだろうか。

 目の前の人間が進んで人に騙されたがったのか、それとも自分が騙してしまったのか。もう二度とこんな思いを味わわずにすみたい彼は自分の側の改善点は直してしまわないと落ち着かなかった。

 そうして自分の歩んできた道を振り返ると、たしかに途中で何度か迷ったことがあった。

 最初からなんの疑いもなく自信に溢れて行動してきたわけではなかった。

 それらひとつひとつの自分の肌に刺さった棘を点検していく内に、彼は次第に自分が理想ばかり見て他人や自分についてまったく関心を払っていなかったことに気がついた。それから人間というものにあまりにも無知な自分が無様で笑い出したくなった。

 どうやら、優しい人になりたいという願いを抱くには、自分はあまりも弱く、身勝手であったらしいとそのとき初めて気づいた。

 自分が見せていた半端で幼稚な片鱗は「善意」とよぶにはあまりに醜かった。他人のすべての感情を背負いきれないならば、自分で選んだ行動の結果に責任が持てないならば最初からそんなものをちらつかせるべきではなかった。

 それこそ、救世主にでもなるくらいの覚悟もなしに、目指すべきではなかったのだ。

 自分は見せてはならない物を見せて、

 そのために救いを求めて彷徨う人間を無責任に振り回したに過ぎなかったのだと思うほどに、憧れた背中が色あせて遠ざかっていくのが感じられた。彼の心は中心に行くほどにだんだんと冷めていき、表面の柔らかだった部分が強ばっていくかに思われた。


 そういうことが続いた末に、彼は自分が自分でいることに疲れはてた。この背にのしかかる罪と、それを償うために自らに課した「善人になる」という生き方。そしてそれに対する賛否。他人から寄せられる期待や要求。もうなにもかもが嫌になっていた。

(――ひとりきりになりたい)

 それが彼の望みだった。海の底でも地の果てでも、どこでもいい。誰にも知られない、名前も呼ばれない、自分以外に誰もいない場所に行きたかった。

 中学を卒業するとき、もうこんな馬鹿な真似はするまいと心に誓った。

 ただ無難に、地味に、どこまでも平穏に暮らすことだけを夢見たのだった。

 そうして彼は自分の正体を隠し、周囲の様子を慎重に窺い、放課後になれば廃墟に逃げ込むようになった。


  *  *  *


 そんな彼だから、自分がかつて挫折して背を向けた道を今なお歩き続ける〈努力家〉を見るにつけて、逃げ出した自分の卑怯さを非難するもう1人の自分が頭の片隅に湧き出して胸苦しくなった。

 すると、さっきまだ黒板を消さないでくれと言った生徒に対して別の生徒が、

「てか、今日の日直お前だろ」

 とツッコんだ。その周囲で大きな笑いが起こった。

「いやいや、でも待って。片桐ってめっちゃ黒板消してるじゃん?てことは黒板消すのが好きなわけじゃん?てことは俺の分も黒板消させて『あげてる』わけじゃん?」

 またも笑いが起こる。

 消すなと足止めを食った〈努力家〉は黒板消しを片手に困ったように笑っている。とうとう次の授業の教師が教室に入ってきて、さっさと準備しろという。

 それでも彼は手伝いはしなかった。

 こんなことになることくらい〈努力家〉だって知っているはずだった。

 おそらく、何度も似たような目に遭いながらも己の行動を貫き続けているのだ。それほど信じる物を強く持って己を支えることができる人なのだろう。自分とは違う人間なのだ、と彼は自らに言い訳をした。自分とは違って、強い人なのだからなんの手助けも必要ないだろう。

 ――そもそも、頼まれてすらいないのだから。

「ありゃりゃ。見てて楽しいもんじゃないな」

 一連のなりゆきを眺めていた〈イケメン〉が言う。

 そういえば、と彼はこの飄々とした早退魔にノートを見せるようになったきっかけを思い出した。

 前述のようなことがあったので、初めのうちは、もちろん断った。

 けれども飽きずに何度も何度も頼み込んでくるのであるとき根負けして試しに貸してみたことがある。すると「お、サンキュー」とだけ言われた。

 その次の日も頼まれたが、今度は断ってみた。

 すると別段へそを曲げるでもなくすんなり引き下がった。この前は貸してくれたのに、とも言わなかった。それで彼の方でも変なやつだと思いながらも、次第にノートを貸すようになり

それから奇妙な形で交友関係が始まり、今に至るのだった。

「そういや俺が日直の時は〈罪人〉が消してくれたんだっけ?」

「誰も消さなかったらね。でもたいていは親衛隊が我先にと押しかけてったよ」

「あーそうだそうだ。それで〈罪人〉が黒板消した女子のリスト見せて、『お礼言ってきなよ』って」

「そうそう、ものすごい圧を感じてあの日は一日気が気でなかったよ。だからお前もう自分が日直の日は休むなよな」

「へへ、お世話様。〈罪人〉も休んじゃえばいいじゃん」

「みんながみんな一ノ瀬ほど気楽に休めるわけじゃない。それに、俺まで休んだら今度はクマちゃんにとばっちりいくだろ」

「じゃあ3人で授業サボってうまいもんでも食いに行こうぜ。きっと普段よりか美味いよ」

「あーそれは・・・なんか悪くないかも」

 やってみたくはある。実行するかどうかは別にして。

「だろ?まあ考えといてくれよ。それじゃなー」

 すでに教室に入っている教師の前で堂々と早退をかます〈イケメン〉。

 あれは教師陣目の敵にされても仕方が無い。

 そうして始業のチャイムが喧噪をゆるやかに鎮めていって、彼は努めて頭の中から休み時間のことを締め出し、教科書を開いた。



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