4-6:ホーム《豆腐少なめ豆腐ハンバーグ》
◇ ◇ ◇
ホームで夕食を作っている。
「だから言っているでしょう。アタシはアナタの敵じゃない。居場所がない子どもたちの居場所を作ってあげるのがアタシの仕事なの。大河、アナタにもここにいる権利があるのよ」
〈専門家〉が性懲りもなく、〈不良〉の怒りに火を注いでいた。
「権利、権利ってそんなに権利が立派ってんなら、てめえのそのブルドックみたいな無様なツラも権利とやらになんとかしてもらえ」
吐き捨てるように言って背を向ける。
あえて的外れな言葉を返して話し合う意志がないことを示しているらしい。
そのまま玄関に向かっていくその背中に、
「待ちなさい。今度またこの前みたいな騒ぎを起こしたらもうここにいられなくなると教えたのも忘れたの」
「だったらなおさら精出して騒ぎ起こさなきゃな」
叩きつけるように乱暴にドアが閉められる。
リビングには取り残されて、隙あらば誰かに八つ当たりをかましたがっている〈専門家〉が目に角を立てている。躾の行き届いていない乱暴な狂犬みたいに。
厚かましい面構えの上に厚化粧を塗りたくったその顔は内面を隠すでもなく外面を飾るでもなく、ただ福士久子という人間の人となりをわかりやすく表しているに過ぎなかった。その醜悪な顔はいくつかのごく微細な表情の変化を示したものの、〈専門家〉の心の感情値をあらわす針が大きく揺れたことはないように思えた。
今年の春に〈不良〉がやって来る以前からどこまでも押しつけがましい独善に満ちた〈専門家〉の精神世界にあるのは他人を支配し優越する快楽と、他人が自分の意のままにならない不快の2つしか存在しないように思われた。そしてたいてい不機嫌な顔をしていた。
けれど彼は自分のその素直な感想を絶えず抑圧し、行き詰まるほどの理論武装によって自らの感情を否定していた。
それは、このような不適格な人間が他人の人生を預かる職に就くことを許され非常勤講師とはいえ、あまつさえ世の人々に高尚ぶって話をすることが何のお咎めもなく受け入れられるのだと考えると、これから自分が漕ぎ出していく社会というものに砂粒ほどの希望ももてなくなってしまいそうだったからだ。
ゆえに彼は常に自らの内部に落ち度を求めた。
〈専門家〉は教養豊かで優れた人格者であると己に言い聞かせ、その認識に沿うように自分の落ち度を修正しようと試みてきた。
実際、少なくとも今現在の彼は〈専門家〉によって養育されており大きな借りを作っているという後ろめたさもあった。たとえ〈専門家〉がどんな人間であれ、借りを作っている弱い立場にありながら恩のある人間を悪く思うことは恥ずかしいことであるようにも感じた。
けれど、そうやって理論の手綱によって自分の首をあるべき方へ向かせようと強引に引っ張るたびに彼が骨の髄が軋むほどの苦痛に苛まれることもまた事実だった。
「――っ」
指先に鋭い痛みが走る。見ると出血している。
くだらない思索にふけったせいで手元まで狂った。おかげでまな板と豆腐まで血で汚れてしまった。彼は指を切っていないほうの手で豆腐の汚れていない部分をさっさとボウルに入れて、血のついた部分はやむなく捨てることにした。
(・・・もったいない)
傷口とまな板を流水で洗っていると、
「どうしたんですか」
と声がする。二階から降りてきた〈補助員〉が〈専門家〉に先ほどあった一悶着について尋ねている。
〈補助員〉というのは、正式には生活補助員というアルバイトなのだそう。この大所帯の家事労働なり、子どもたちへの家事指導なりも含めて養育者である〈専門家〉〈旦那さん〉夫婦の補助をするのが業務内容らしい。
が、ここの家事を担う〈旦那さん〉が相当なスペックの持ち主であるのと〈専門家〉の人柄も相まって、実際には〈専門家〉が昼間大学生向けに行う授業の資料作成なり、行政に届け出る書類の作成なりを担当しているらしい。
風貌は〈不良〉よりもがっしりしていて、無骨という言葉がしっくりくる。
骨太なシルエットと健康的に焼けた肌、濃くまっすぐな眉と寡黙に引き締められた口元が印象的な〈補助員〉はその見ためどおり無口で無愛想なのでなにを考えているのかまるでわからない。そのため〈わんぱく〉などはときどき怖がるけれど、〈ガリ勉〉からは敬意を向けられているし、彼としてもその実直で剛健なさまは頼もしく見える。・・・ついでに言うと、「自分、不器用ですから」とか言ってみて欲しい。
その、〈補助員〉の言葉に不機嫌を隠そうともせずに〈専門家〉が答える。
「見ればわかるでしょう。あの問題児がまた私に試し行為をしてきたんです」
「はあ。それで、飯は食ったんですか」
さして取り合わない〈補助員〉に〈専門家〉は高圧的な視線を向けたが、岩石のような〈補助員〉はそれすら意に介さなかった。
「まだなら、準備しましょう」
そういって台所にやってきておもむろに手近な布巾をとる。
「あ、それ食器拭く用のです。台ふきは、その緑色のです」
「そうか」
緑色の布巾を手に取った〈補助員〉は、指を洗っていた彼の手元を見て
「怪我したのか」
「はい、でも絆創膏ならここにあります」
空いた手で引き出しを開ける。こういうときのために一通り台所にも救急箱の中身が常備されている。彼がそこから絆創膏を取り出して手に巻こうとすると、〈補助員〉は黙ってその分厚くて男らしい手を差し出した。
どうやら巻いてくれるらしい。
「・・・ありがとうございます」
断る理由もないので、親切に甘えることにする。
絆創膏を受け取ると、うん、と一度頷いて、不慣れな様子で彼の指に巻き始める。
「・・・・・・」
お互い無言のまま巻き終わる。
一応彼が感謝を込めて頭を下げると、また、うん、と頷き、布巾を手にして去って行く。
「あの、台ふきは緑色です」
その手に握られているのは黄色の布巾だった。彼に言われて〈補助員〉は自分の手元を確かめて、別に慌てる風でもなく改めて緑色の台ふきを携えて今度こそ去って行った。
後に残された彼が自分の指に巻かれた絆創膏を見てみると、正直言うと自分で巻いた方がまともだった。けれどなんとなく暖かくて、なによりその不器用な見た目とのギャップに親近感を覚えた。
リビングでは、部屋から出てきた同居人たちが食事の準備にとりかかり始めていた。
〈ガリ勉〉は〈補助員〉に机を拭くのは自分がやると申し出て妹は箸やら食器やらを取りに台所にやって来た。そこで、1人でにやついている彼を見て、
「なにか面白いことあったの?」
と不思議そうに聞いた。
「なんでも」
彼は答えた。
「今日のメインディッシュは豆腐少なめの豆腐ハンバーグだ」
「じゃあ、肉多め?」
「いいや、ふつう」
「なにそれ」
「俺にもわからん」
いつも通りの他愛ない会話。けれどそれさえこのホームでは当たり前に与えられるものではないのだ。
――いつか。
いつか、〈不良〉ともこんな風に話せる日が来たらどれだけいいだろう。
そんなことを、つい考えた。