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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月9日
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1-2:廃 墟《月光と水晶のピアノ》


 月光に照らされて浮かび上がった姿は、制服に身を包んだ女子高生だった。

 色素の薄い髪色と、ほの白い肌。それらが、淡い光に洗われていっそう透明感をます。

 彼女は、口元の煙草から煙をくゆらせながら、長い眠りについているピアノを見下ろしていた。その伏し目がちな視線が、どこか感慨深げな憂いを秘めているようで、目にした者に彼女の考えていることを知りたいと思わせるような、心の迷路に誘い込む引力があった。

 そのままずっと、彼女は写真の中に閉じ込められた住人のように、黙ってピアノを見下ろしていた。まるで何かを問いかけるように。

 その問いがピアノに対してなのか、彼女自身に対してなのか、それともピアノの記憶と深く結びついた誰かに対してなのかは知るよしもない。

 やがて彼女は、白く細い手をたおやかに伸ばす。ピアノの神秘を守っていたベールの端をつかみ、隠されていた姿を月光の下にさらした。

 ――するとベールの下から現れたのは、水晶でできているかのような「透明な」ピアノだった。鍵盤や、そのほか内部構造以外はすべて透明な素財からできていてる。それを透かす青白い月の光が、水の反射が織りなすような淡い影を地面に投げかける。その影の濃淡は、波打つような見事な風合いを帯びていて、ほんとうに光の水が流れているようだった。

 布に覆われていたおかげなのか、埃ひとつない。つややかな表面は、星々よりも眩しくきらめき、あますことなく内側をさらけだしている。差し込んだ光が招かれるままにその中へ入り込み、幾重にも反射を繰り返し、その光量を強めながら、水晶のなかを駆けめぐる。

 やがて、封印を解いた彼女の手によってキーカバーが開かれ、長い夢から鍵盤たちが目を覚ます。とぼけたような無邪気な純粋さで演奏を待っている彼らの上を、彼女の白い指先がいとおしいものをなでるように滑る。

 夜の廃ビルの最上階。

 月明りのスポットライト。

 眠りから覚めた水晶のグランドピアノ。

 そこへ迷い込んだ、煙草の煙をくゆらせる女子高生。

 息を飲むような無音。

(絵になる光景だな・・・・・・)

 などと、他人事のようなことを彼は思ってしまった。だから、隠れている自分の立場も忘れて、それこそ自然自失として、ただただ見つめていた。

 人の思惑になど無関心な煙だけが、気ままにただ揺らめいていた。それがなければ時が止まったのかと錯覚しそうなほど長い時間がすぎたあと――あるいは、心を奪うほどの絵になる景色が時間の感覚を狂わせたのかもしれない――ようやく我に返った彼は、改めて自分をとりまく現実を再認識する。

 相手はひとり。性別は女性。年齢は自分と同程度。武器は不所持か、持っていてもポケットに収まる程度のもの。どうやら大した危険ではなさそうだ。

 身の安全を確かめた後も、彼はもう少し見とれていたいような気がした。が、

(あんまり盗み見るのも失礼だよな。気づかれたときに余計気まずくなるし)

 だいたい、ドアの陰などに隠れていてもどうせその内見つけられることは目に見えている。ならば、と腹をくくって彼は彼女に声をかけた。

「ピアノ、弾けるんですか?」

 そうしてドアの陰からぬっと姿を現す

「――――⁉」

 当たり前のことだけれど、彼女は飛び上がりそうなほどに驚いた。

 激しく振り返った拍子に口元から煙草がこぼれおちる。鍵盤の上に置いていた右手がうっかりガーンという音を鳴らす。アニメなんかでよく耳にする、ショックを受けた時の効果音。ただでさえ白い顔がよりいっそう蒼白になる。彼女の足元からは、なおも煙が立ちのぼっている。


 驚きと恐怖のあまり気でも失ってしまうのではないか。そんな風に気の毒がらずにはいられないほどの様子を前に、ちょっとだけ申し訳なさがこみあげてくる。

(なんだか俺が悪いことしたみたいだな)

 魔法で作ったみたいな素敵なピアノに出会ってうっとりしているところに、いきなりドア陰から男が現れたりしたら、それは確かに驚くだろう。まして時間は夜。おまけに何が一番いけないかといえば、運悪く彼が唯一の出入り口のすぐ近くに立ってしまっていることだった。言い換えれば、彼女は逃げようにも逃げられないということだ。

(・・・・・・やっぱし俺が悪いかも知れない)

 もちろん、夜の廃墟になんぞやって来るのだからそれくらいの覚悟をしておくのも向こうの義務だろう。しかし、ここでそんな正論を投げ込んでもしょうがない。

 あんまりまっすぐ見つめてしまうと余計に怖がらせてしまうと思い、目をそらして斜め前の地面に視線を向けておく。こっちだってそんな風に怯えられるとバツが悪くなる。

 さきほど彼女が鳴らしたガーン、という音の余韻がすっかり消えるのを待ってから、彼はゆっくりと顔を上げた。

「・・・・・・」

 すると彼女も、窺うようにこちらの顔を見つめてくる。いかにも、こわごわといった感じで。彼も、自分に危害を加えるつもりがないことを示そうと見つめ返す。

 月明かりの中心に立つ彼女と、夜の暗闇に隠れた彼は、互いに隔てられた距離のまま目と目を合わせて見つめ合った。

 沈黙のまま、二人の視線が交差して目の前の相手の姿を頭がはっきりと知覚する。

 彼と彼女は、そのとき初めて互いの瞳に互いを映した。

 月明かりに照らされた桜の花びらが軽やかに舞い、まだ町中が甘い春のかおりに満たされている夜のことだった。

 ――立ち入りを禁止されたエデンの楽園で、こうして彼と彼女は出会った。



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