3-6:廃 墟《お姫様と悲しげな微笑》
「じゃあ、とりあえず事情がはっきりするまでは、このピアノは弾かないほうがいいんでしょうか」
悪いクセである物思いに彼がふらふら意識を漂わせそうになると脱線した話を彼女がレール上に戻す。
「そう思います。誰かがいるのかどうかもはっきりしませんが、用心に超したことはないでしょう」
「それなら、こういうのはどうですか。ピアノ弾いてもいいかという感じの文章を付箋か何かに書いておいて椅子の上に置いて反応を待ってみるっていうのは」
「なるほど、ありですね」
「あ、でも私、手ぶらで来たんだった・・・」
「俺が持ってるので、それを使ってください」
「ありがとうございます。」
「いますべきことは、それくらい、でしょうか」
「みたい、ですね。ーーでも、じゃあその間どうしましょう」
「なにがですか?」
「ピアノが弾けるようになるまで、ここで何をしようかなって」
ああ、そういうことかと合点がいく。
彼には植物を眺めたり図鑑をめくったりという時間の使い方があるけれども、彼女にとっては演奏がそれに相当するのだ。
「そうだ!」
どんな図鑑なら彼女の気に入るだろうかと考えていると、さっそくなにか閃いたらしい。後ろで手を組んで、心持ち彼を見上げながら彼女が言った。
「このあたりを、案内してくれませんか?」
「案内、ですか」
「はい。この前は犬に追われたり、迷子になりかけたりといろいろ大変だったんです」
「そういえば、言ってましたね。――ああそうか、たしかに今のうちに〈縄張り〉とか監視の目がゆるい出入り口とかを伝えておいた方がなにかと便利ですもんね」
うんうん、と彼女が頷く。
それを見ていると、やっぱりなにか面白い。
そのときふと、ある疑問が浮かんだ。
普段から彼女はこんな風に振る舞っているんだろうか。こんな風に――厳しくしつけられたような品の良さを漂わせながらでも子どもらしい無邪気さやおてんばなところを垣間見せる。
その、本当は活き活きとはしゃぎたいのを、ちょっとだけこらえている様は、やっぱり――
「どうかしました?」
彼女がこちらを見つめている。
「ああ、いえ。なんだかお城から抜け出してきたお姫様みたいだなって思ってただけです」
「え?」
「あ」
(――しまった、油断した!)
言ってから気づいた。
さっきの歓談でちょっと気持ちがほぐれたついでに、うっかり警戒を解いてしまった。いやいやいやいや、別に大丈夫だろう、皮肉でも嫌みでもないし。むしろ賞賛の言葉として彼女は受け取るに違いない。そうだとも、問題ない。なにもやましいことは言っていない。嘘偽りを述べたわけでもない。いかなる問題も断じてない!
ここは変に引っ込めれば要らぬ不審を招く。むしろ堂々と打って出るべき局面だ。彼がいっそ前面に押し出していこうと臨戦態勢を固めたところへ、
「〈樹〉くんまで、そんなお世辞言うことないのに」
その顔は、自分の愚かさを自嘲するような乾いた淋しさを漂わせていた。
(・・・・・・え?)
「それに、もう嫌です。あんなドレスを着るのは」
表情と、言葉とで、ますます彼は混乱する。
やっぱりやんごとない身分の人だったのか。式典とかに出席して、クラシカルな音楽に合わせて優雅に舞踏とかしてたんだろうか――ではなく。
「昔そんなにしょっちゅうドレス着てたんですか」
「気になります?」
と、今度は彼の度胸を試すかのように妖しく微笑む。その微笑みの奥にさきほど垣間見せた表情は隠されてしまった。
「はい、まあ、それは」
ニッポン男児として偽りないところを述べる。
「パーティーの食事とかって、どんなのが出るんですか?」
「はい?」
「その、ドレスを着るようなフォーマルな場所では、どんな感じの食事でもてなされるのかなって」
彼女はたまらないと言った風に吹き出した。
あの笑い方には心当たりがある。人を世間知らずと可笑しがるときのものだ。
「ピアノですよ、ピアノ」
「なにがです?」
「ドレスを着るのは、ピアノのコンクールでっていう意味です」
「ああ、そっちの・・・・・・」
園遊会でもなければ立食ブッフェでもないとのこと。いや、園遊会はそもそも着物のほうが多いんだっけか・・・・・・?
「なんでちょっと残念がるんですか」
「そんなことないですよ」
「意外と食いしん坊なんですね」
「それは俺にとっては褒め言葉です」
あんな顔を見せるものだから、なにかまずいものに触れたかと思って食事の話題に転じてみたのに、今度は少し不満そうな顔になる。
「あたし、これでもけっこう強かったんですよ?女王って呼ばれた時期もあるんですから」
両手を腰に当てて、えへん、といいたげなポーズをとってはいるが、その響きからは誇らしさよりも自虐と孤独を聞き取った。
女王。その言葉から彼は誰にも気を許せずに、利害の渦に巻き込まれ周囲の謀略とどろどろした思惑に利用された挙げ句こころを凍り付かせて玉座を守る女王の姿を想像した。
誰もがそれを嫉み、引きずり下ろそうと画策し、その中でも常に頂点で君臨し続ける者の、その孤高の精神。
「というと、お城暮らしに嫌気が差して亡命にきたって感じですか」
「そうそう、そんな感じです」
頭のすみにちらつく暗い幻想を振り払うため、つとめておどけて見せる彼に、彼女ものってくる。それは、女王というより、広い空にまだ見ぬ夢を託す籠の鳥のようだった。
「ね、いいでしょう。どこでもいいから樹君の好きなところを案内してください」
「謹んでお引き受けいたします」
大仰に応える。
「そういうことなら馬車でも用意できたらよかったんですが。あいにく馬の免許をもってないんです」
「馬って免許いるんですか?」
「さあ。どっちみち乗る機会もそんなになさそうですし」
「もう、自分で言い出しておいて」
「すみません」
かりそめであれ、彼女の頬には笑顔が灯った
けれど、彼女の心に影を落とすものがなんであるのかは知るよしもない。
彼女にも、きっと人に言えない多くの悩みや悔いがあることは察せられた。
誰にも触れられたくない過去や、消えない大きな傷痕をも抱えているのかも知れない。それは彼にしても、ほかの大勢の人にとっても言えることだろう。
そうして、たとえ似たもの同士に思えたとしても、決して同じ人生が存在しないのと同じように、同じ苦しみも、きっとない。だから人はどこまでいっても、何から何までをわかり合うことはできずどこまでいっても、どうやったって孤独や淋しさ引き連れていくしかないのだと思う。
――誰かの苦しみをその人と一緒に背負いたいとどれほど願っても、それはやっぱり分不相応な高望みだったのだから。
それも仕方ないと彼は思った。
大げさな言葉が許されるなら、人は本来そういう生き物だろうと思う。お互いの皮膚に隔てられた別々の人間だから、ひとつになることも、心の底からわかりあうこともできない。
どれだけ心を強く保とうとしても、楽しさに紛らわせようとしても決して隠し切れない寂しさもわきあがる。それでも、だからこそ、肌と肌が触れ合うときや、相手の心の深いところに触れることが出来たと感じられるときには、なにものにもかえがたいぬくもりや、通じ合えたようなあたたかさを感じることも出来る。
――彼の一番大切な、そうして一番償わなければならない人が幼い彼に教えてくれたのは、そういうことだった。
けれども彼は、彼女の個人的な事柄についてはまったく関わるつもりがなかった。
人が秘密と呼びたがるような何かが、もしかしたら彼女の心や人生にはあるのかもしれない。彼女はそれを、誰かに分かってもらいたいとか、誰にも見せたくないとかひょっとしたら思っているのかも知れない。そうだとしては、そんなことは彼にとってはどうでもよかった。
昨日会ったときには、つい勢いで妙なことを口走ってしまったけれど、もういまさら誰かの事情に首を突っ込もうという気はさらさら起こらなかった。なにより、自分の「事情」について誰にも触れさせるつもりがなかった。
彼と彼女の関係は、あくまでも〈廃墟での隣人〉というものだった。それをうっかり自分でも忘れそうになってしまっていた。ただ、わざわざ馴れ合う必要がないのと同じように、突き放す必要もない。
彼女といることが心地よいのは事実だし、悪い印象だってもっていない。だからこそ余計に、この適切なよそよそしさとお互いへの気遣いを崩したり、揺らがせるようなことだけはしたくなかった。
(ちゃんと線引きをしとかないとな)
この距離をなにかの弾みで踏み越えたり、あるいはその逆がないようにと改めて彼は自らに戒めた。