3-5:廃 墟《忘れかけていた笑い方》
ともかく。2人の関心は再び水晶でできたようなピアノに戻ってきた。
2人の会話をよそに、当たり前だけれどピアノは黙っておとなしくしている。
けれどもその物言わぬ佇まいの中に、どうしてかわからないまま彼はある不思議な空想を抱いた。誰に演奏されることもなく冷凍睡眠でもしていたピアノが、静の状態から自分の本来の機能を果たす動の状態へと移行し始める。そんな空想だ。
とするなら、このピアノにとってのガソリンや血液の代わりを果たすのは光だろうか。透明な内部の中を幾重にも反射しながら循環していく光。
(なんて、そんなことを妄想しててもしょうがないか)
「これってやっぱり、どう見ても人の手が加わってますよね」
「私もそう思います」
「もし、いつもこの状態を維持しようとしたら、どのくらいの頻度で手入れすればいいでしょうか」
「うーん・・・・・・私も調律を専門にしているわけはないのではっきりしたことはわかりませんが・・・・・・やっぱり外気の影響を受けやすい場所にあるので数ヶ月に一度くらいじゃないでしょうか」
「思っていたより少ないんですね」
「普通は年に最低でも一回なので、それでも多いくらいです。でもこれは少なくとも長時間放置されてはいないみたいですし、調律も整調も、うん、されていて、弦の張り具合も馴染んでるみたいです」
ペダルを踏んだり、適当な鍵盤を指で叩きながら言う。
「ということは、誰かがちょくちょく調律をしに来てる――?」
「そう考えるのが無難じゃないかと」
まさか、いちいち新しいのを用意して交換するなんてことははしないだろう。
だってこれ、いくらするんだろう。
グランドピアノの相場が数十万円なのか数百万円なのかは知らない彼だが少なくとも目の前のこれが数百万の値をくだることはないだろう。財力も労力も馬鹿にならない。いや、そもそもこんなところにこんなものを設置した人間は少なくとも存在するわけだから、案外そういう人種が存在していてもおかしくないのか?
「ということは、向こうが鉢合わせしないようにここにやってきてるのかな」
「――もしかして透明人間のしわざだったりして」
「そうなっちゃったら、もうなんでもありですね」
ここにきてそんな新発見をすることになろうとは思いもよらなかった。まったく見たこともない、存在を意識すらしたことのない人間が鉢合わせないように注意深く彼を警戒しながら、
彼がいなくなるやここへやってきて人知れず調律をする――。
「怖いような、怖くないような」
正直、突拍子もなさすぎて現実感がもちにくい。
かといってほかに納得のいく説明が思いつくわけでもない。仮に第三者なるものがこの廃墟に出入りしているとするならもちろんとても気になりはするけれど、少なくとも一年間も彼がそんな危機感すら抱かずに過ごせたと言うことはそこまで敵意を持った危険な人物とは思われない。
「なんにもわからない、ということがわかりましたね。世の中、不思議なこともあるもんだ」
なかば独り言のように彼が呟く。
いつのまにか2人そろって腕組みをして考え込んでいた。
「え?あ、そ、そうですね。ほんとうに不思議です」
こちらもどこか不思議な彼女は、言いながら目が泳ぐのも隠しきれてない。
それを見るにつけても、なんだか可笑しくて彼はつい笑ってしまう。
「もう、なんで笑うんですか」
彼女が控えめに、けれどすねたように抗議する。
その姿がなんとも、たぶんこれは失礼なんだろうけれども、面白い。
「すみません、悪気はないんです、本当に」
彼は言いながら考えていた。いつ以来になるのだろうか。
「ただ、面白い人だなあと思って」
こんな風に、何も考えずに、自然と笑うことができたのは。
彼女が、からかうように目を細める。
「そういう<樹>さんも、変な人ですよ」
「ミステリアスって言ってほしいです」
「じゃあ個性的」
「その言葉、あんまりいい意味でつかわれるの耳にしませんよ」
「グルメ番組とかでときどき聞きますよね『好きな人はすっごく好きそうな個性的な味ですね~!』って」
「それ完全に、ほめ方見つからなかったときの方便じゃないですか」
「いいえ、褒めてます。褒めてますよ」
いつしか2人とも笑顔になっていた。
会ったばかりで、互いの名前も年齢も血液型も、なにひとつ知らないままで。
わからないことや、解決の見込みがない問題を抱えているのに。
もしかすると。これは本当にただの仮定に過ぎないけれども。
あるはずもないものを求めてこんな場所で巡り会った2人は、
実は似たもの同士なのかもしれない。
そう思える気安い空気や居心地の良さが2人の間には通っているような気がした。
互いの姿形は似ても似つかないほどの遠い距離で隔てられているにもかかわらず
互いの足下に夕日が伸ばす2人の影は、どこか他人事じゃない
2人ともに見覚えのある色をしているようなーーそんな風に思えてくるのだ。