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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
7月7日
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幕間《蓮の海》


「着きました」

 ほどなくして彼女が立ち止まった。少し遅れて彼も足を止めた。

 が、やはりどこか分からない。あまりに霧が濃すぎて周囲の景色がまるで判然としない。「足下、気をつけてくださいね。池に落ちちゃいますから」

 彼女が気を遣ってくれる。とすると、ここは最大の名所である「蓮の海」なのだろう。ちょっと目をこらして見てみると、確かに池の縁のようなものがみえる。しかしやはり全容が掴めないためこの池がどこまでも、それこそ海のように際限なく続いているようにすら思われた。

「ここからだとせっかくの蓮も見えませんね」

 植物好きの彼としては密かに期待する気持もあったけれど、ちょっと天候に恵まれなかった。いささか落胆していると、彼女がとんでもないことを言い出す。

「近づけば見えますよ」

「そりゃ、そうでしょうけど。アヒルのボートとかあるんですか」

 普通の公園ならばあるかもしれないが、ここは徹底して和の空気で統一している。プラスチックにペンキを塗りたくったような代物は用意されていないだろう。

「惜しい。でも、やることは同じです」

 そう言って彼女が彼の手を引いて歩く。そうして数歩移動した先で波止場のようなものが見えてきた。森鴎外の『高瀬舟』にでも出てきそうな小舟が一艘浮かんでいる。近くには編み笠着物の男も立っていた。その男がまた得も言われぬ雰囲気を醸し出している。

 江戸時代からすっとここにいるかのような、と言ったら失礼にあたるかもしれないが、それが一番端的な気がする。人よりかは幽霊に近く、幽霊よりかは人に近い。そこに間違いなく居ると頭では分かるのだけれど、本当に触れられるんだろうかと心とか直観みたいなものが疑ってしまうような存在の不確かさ。あるいは霊魂だけの存在だったはずのものが、何かの手違いで質量のある肉体を手にしてしまったけれど、ちょっと並の人間とは存在のあり方が異なってしまっているような生命の曖昧さ。

「2人、お願いしてもいいですか」

 それなのに彼女は意気揚々と迷いなく声を掛ける。彼女だってなかなか幻想的な透明感があるけれど、あの船頭はもうひとつ次元が違った。乗ってしまったが最期、そのまま三途の川を渡らされてしまうんじゃなかろうかと思わないでもない。

「・・・・・・」

 船頭が無言で頷く。編み笠をしているので目の色どころか表情も見えない。まして他よりも船頭のいる場所だけ霧が濃いような錯覚までしてきて、ますますつかみ所が無い。

 その船頭に、彼女がスカートのポケットから取り出した小銭をちゃりんと渡す。

「あ、自分の分くらいは払うよ」

 現実――と呼べるのかも怪しくなってはきたけれど――に引き戻された彼が慌てて財布を取り出そうとすると、彼女はゆっくりかぶりを降った。

「ここに来てくれただけでも嬉しいから」

 そう言って舟に乗り込む。彼もしかたなくそれを真似る。狭く小さな舟の中で向かい合わせに座る。それなのに霧のせいでお互いの姿形がよく見えない。そして不思議なことに、舟に腰掛けた瞬間、なんだかなにもかもが他人事のような気分がしてきた。どれほどの喜びも、憎しみも、すべて透明に胸を通り抜けていくようだった。

 最後に船頭が舟に乗った。岸へと繋いでいた綱を外し、オールで岸を軽く押す。それだけで大海原の中の草舟のようなそれは、水面に静かな波紋を広げながら、ゆっくりと霧の中を滑るように進み始めた。まるで重さなどないみたいに船頭がオールを漕ぎ、そのたびに蓮の海へと入り込んでいく。さっきまで立っていた岸辺が遠くなっていく。

 する霧の中から、今しがたちょうど咲いたばかりのようにいくつもの蓮の花が現れてきた。手を伸ばせば触れられそうな距離に咲いているものもある。これだけ薄暗い中でも、雪洞か提灯のように仄明るく見える。色彩を欠いた世界の中で、唯一淡く色づいているからそう映るのかもしれない。

 なにせ、見渡す限り鉛色の鏡のような水面と、真っ白な霧以外のなにもないモノクロの世界なのだ。振り返って確かめたわけではないけれど、今頃陸地もなにも見えなくなっているだろう。それだけ単調な世界だからこそ、ほんのささやかな彩りですら光のように感じられる。

 聞こえるのは、オールを漕ぐ軋みと、舟が水を切っていく音だけ。

 彼女は舟に乗ってからなにも話さない。彼女がやっぱり話さないことに決めたのなら、彼はそれでも構わない。無理にせっつくことをするつもりもない。ただ、もし彼女が言おうか言うまいか葛藤しているのだとしたら、それをただ見ているだけではいくらか冷淡かもしれないとも思い始めた。

「ワビサビのある景色ですね」

 当たり障りのないことを切り出そうとしてみる。

「それ、本気で言ってないでしょう」

 ところが先方は世間話に付き合ってはくれない。彼は少しだけ白状することにした。

「バレましたか。実はちょっと不思議なデートだと思ってまして」

「どう見ても不審ですよね」

「失礼ですけど、心中にでも誘われたらどうしようかと」

 少し切り込みすぎたかもしれない。これで彼女が退いたら、もう深入りするのはやめよう。そう思っていたけれど、

「・・・どう、するんですか。もし誘ったら」

 彼女はそれに興味を示した。

「言われたときに考えますよ」

 なんとなくで聞いているだけなのか、明確な答えを求めているのか分からない。とりあえずで彼はのらりくらりと返事をしたが、

「そんなに油断してたら危ないかもしれませんよ」

 彼女の目つきは真剣そのものだった。失礼なことを言ってしまったのだとそのとき気づいた。冗談でも何でもなく、彼女にとっては切羽詰まったものがあるのかもしれない。

 彼が少し身動きすると、ポケットの中で若竹から借りてきた鍵がジャラリと鳴った。その音が霧の中で正気を失いかけていた彼を目覚めさせた。魂が離れていくように肉体から薄れつつあった自我というものを郷村は取り戻した。そうして、自分の気持ちを正直にぶつけることにした。

「生きて帰ります。必ず。できるなら、〈希〉さんも一緒に」

 それを聞いて寂しそうな、嬉しそうな、でもなんにせよ迷いの断ち切れたサッパリした表情になった。

「・・・・こんな所にお誘いしてまで申し訳ないんですけど、さっきまで本当に打ち明けるかどうか迷ってたんです。でも、それを聞いて安心しました」

 そこでいったん言葉を切る。沈黙が流れていく。そうしている間も2人はどことも知れない場所へと運ばれていく。見えもしない、もしかしたら時間も距離も失われた遠いところへ。そしてどれくらいの時間がたっただろう、時間が本当に流れているのかさえも不確かなこの幽玄のなかで。

 彼女はずっと外へ向けていた瞳を戻し、郷村のことを正面から見つめた。

「実は私、もうすぐ世界から消えてしまうんです」

 その瞬間。水面に、ひときわ大きな波紋が広がった。


――――――〈夏へ続く〉――――――



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