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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
7月7日
105/106

幕間《霧の中》

 

  ◇  ◇  ◇


 日の出の時間に間に合うよう、黎明の暗い内から出かける準備をしている。

 デートとは言われたものの、私服を着ていくのもどうかと思って制服を選ぶ。土曜日とはいえ、部活なんかで着ている人もいるだろうからそこまで問題ないだろう。さして必要なものもないだろうから、スマホとICカード、それから財布だけ確認して部屋を出ると、

「こんな時間からお出かけか?」

 若竹がぬらりと声を掛けてきた。

「ちょっと、人と会う約束がありまして」

 咎められるだろうかと胸を冷やしていると、

「鍵はもってるのか」

 ひどく無難なことを聞かれる。確かめてみると、持ち合わせていなかった。ホームの性質上、基本的に24時間誰かがいることが多いので鍵で困ったこと自体一度もなかった。けれども確かに、もしデートとやらがあっさり終わったら、寝てるみんなを起こしてしまうことになるかもしれない。

「そんならこれを持ってけ」

 無造作にポケットから取り出したものを投げて寄こす。

「ありがとうございます・・・。でもこれ、車の鍵とか色々ついてますけど、大丈夫ですか」

「大丈夫だろ。お前がちゃんと持って帰ってくりゃ」

 遠回しに、しっかり帰ってこいと言われたような気がした。郷村の廃墟での日々や、これからどんな心構えで向かうかなど、まさか若竹に分かろうはずもない。ないけれど、長年この仕事で培ってきた直観のようなものがプロにはあるのかもしれない。

「そう、ですね。お借りしていきます」

「朝飯までには帰ってこいよ」

 頷いて彼はホームを後にした。


 待ち合わせの公園は、市内でも最大規模のものだった。

 四季折々美しい表情を見せてくれる日本庭園や、雰囲気を損ねないよう和風に建築されたトイレや休憩所などが見物だ。その中でもこの時期の一番の目玉は、湖ほどもある池だろう。

 「蓮の海」とも名高いその場所では広大な池いっぱいに何百、あるいは何千もの蓮の花が咲き並ぶ。その中に身を置くと俗世間から遠く離れて、天女たちが弦楽を奏でる仙境に入り込んだような気分が味わえる。

 ――はずだけれども、この日はあいにく濃霧に覆われていた。

 初夏であるものの早朝というだけあって、まだ肌寒さの残るせいかもしれない。もちろん日が昇れば気温も上がってすぐに晴れはするのだろうけれど、そうと分かっていてもいくらか不気味な感はある。ファンタジー世界で魔女が住む薄暗い森奥に迷い込んだような底知れなさを感じさせる濃霧だった。

 そうして前述の通り敷地が広い。つまり入り口もいくつかある。3メートル先ですらほとんど覚束ないような霧の中で、どこに現れるとも分からない彼女を見つけるのは困難に思われた。

(遅れないよう早めに来たから時間はあるけれど、動かない方がいいかもな。もし〈希〉さんも俺を探して歩いていたら、入れ違いになるかもしれないし)

 いや、それを向こうも考えてお互い動かなかったら?そのときはそのとき。日が昇ったら霧も晴れるだろうし、そうなってから探しに行こう。

 開き直ってどっしり構えてみると、ちょっと感じ方も変わってくる。

 見通しをきかせなくする霧も、どこか静謐なものに思えてくる。魔女の住む森が今度は山林の神社になった。早朝から作務衣をまとった人たちが無心に祈るように働いている。その物慣れたルーティンワークが、日々雑多なことに追われ続け心を貧しくした現代人の目には清らかで尊いものに映る。そんな木と鳥の声とに囲まれた静かな神社を、濃い霧が俗世から覆い隠している――。そういう空想も面白いかも知れない。

 見えるのに、触れられない、でもどこか肌にしっとりと感じるものがあるような気がする。

 それがこの霧の神秘の源に思われた。風ならば見えもしない。雨ならば見えすぎる。けれども霧はちらちら垣間見せながら、けっしてすべてを曝けだしはしない。だからこそ余計に心が求めてしまう。

「おはようございます」

 空想の入り口に入りかけたところで声を掛けられる。危ない、小一時間くらい考え事に耽るところだった。

「おはようございます、もう来てたんですね」

 姿は見えないが声で分かる。そしてそれは敷地の内側から聞こえてきた。

「誘った側が遅刻しちゃいけないと思って。今日は来てくれてありがとうございます」

 霧の中から薄らとシルエットが浮かび上がる。それが近づいてくる。あっという間に彼の目の前に来て立ち止まる。彼女の恰好も、彼と同じく制服だった。

「この霧の中でよく見えますね。・・・それとも音楽をやっている人はそれだけ耳がいいんでしょうか」

「いえ。全然分かりませんよ」

「じゃあ、どうやって?」

「ただの勘です」

 それから彼女が先導して歩き出した。彼は案内されるままついていく。


 歩きながらも、彼の頭の中は廃墟で見たあの異変のことでいっぱいだった。けれども中々それを切り出すきっかけがない。彼も彼女も、ただただ無言で歩いている。

 少なくとも、彼女はなにかを告げるためにここに呼んだのだ。そして自分はそれに応じた。であるならば、彼女がそれをいつどのように告げるかは彼女の裁量に委ねられるべきだと考えた。自分から無闇に突っつくべきではない。

 そうして来るべき瞬間を待ちながら文字通りの五里霧中を歩く。

 そんな風にずっと霧のなかに居続けると、次第に境界線が曖昧になっていくような錯覚がしてきた。何と何の境界か。それは「ここ」と「この世ならぬどこか」の境界のような気がする。とても近くてどこよりも遠い、けれど何かの機会に世界の表面がめくれたときに、こんなにも近いところに隣接していたのか、と気づかされるような、そんな場所だ。

 やがて「自分」と「自分でないもの」の垣根も揺らぎ始めてしまいそうだった。誘われるままに迷い込んでいる自覚はあった。池の中に大量の化け物が隠れていて、そいつらがせっせと吐き出しているじゃないかというくらい深すぎる霧にもだんだん疑問を持ち始めてきた。

 けれども不思議なことに、彼は少しも不安にならなかった。

 なぜかといえば、現実の社会の中で暮らしているとき、彼は自分自身の心を常にそういった場所に置いているとすら感じていたからだ。こんなことを言うと世捨て人のように思われるかもしれないけれど、父を亡くしたあの日以来、彼はそれからの毎日を余生のようなものと捉えていた。だから、そこから先は自分の命ではない。〈郷村純平〉という枠組みの中で生きてはいるけれども、それは自分であって自分ではなく、自分を包含し、また自分以外のものから成り立つものでもあった。

 そういう意味で、この霧の中の景色は彼にとっては心地よかった。自分が正体をなくして何者でもなくなっていく、霧に溶かされて存在が薄められていくという空想は、ある意味では癒やしですらあった。なにか脳みその中に甘い靄がかかったような、肌にすべすべする蜜を塗り込まれているような感じがしていた。



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