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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月10日
10/106

2-8:ホーム《白ワインのボンゴレビアンコ》

 

  ◇  ◇  ◇


 廃墟を後にして、ホームへの帰途へついていた。

 すっかり夜の帳が降りた空には、散りばめられた星が瞬いていた。電車の窓から流れ去っていく景色を見ながら、彼はこれからのことに思いを巡らせていた。

 長いことひっかかっていた胸のつかえが、やっと取れたようなすっきりした感じがある。散歩していると知らない道に出てきたような、期待とひとつづきの不安がせめぎあっているような感覚もある。おかげで妙にそわそわして落ち着かなかった。

 考えることは堂々巡りで、いっこうに明確な焦点を結べないのにどうしてかときおり脳裏にちらつく彼女の姿だけはなによりも鮮明だった。

(〈希さん〉、か・・・)

 思い返せば。

 その名前もお互いそう呼び交わすことを取り決めた記号にすぎないのであって彼女の本名はおろか、学年すらもわからない。唯一手がかりらしいものはといえば――

(・・・・・・いかんいかん)

 思わず電車内で彼女と同じ学校の制服を着ている生徒を探してしまいそうになる自分を戒める。そんなのは野暮なことだ。お互いのプラバシーには触れないよう言い出しておいたのは自分なのに。

 なによりも陰湿で卑怯なやり口なのがいけない。そんなに気になるなら彼女に直接きくべきことだ。いや、そもそも聞いたところでどうしようもないから聞かないけれども。

(やっぱり、なんだか調子くるうなあ)

 やれやれ、と心の中でひとりごちる。すると今日の昼間に〈イケメン〉に言われたことを思い出す。

(これか。あいつの言っていた俺の口癖って)

 自分でも自分がわからなくなり始めた彼は、他人の方が距離をとって眺められる分、彼よりも彼についての多くのことを知っているような気がしてきた。

 すると彼のスマホの通知が鳴った。

《バイトお疲れ様。

 疲れてるとこ悪いけど、お使いをお願いします。

 炭酸水を2本

 ヨーグルト

 洗濯洗剤

 を買ってきてもらえると助かります。

 それと久子と大河君は今日帰りが遅くなるそうです。》

 ホームにいる〈旦那〉さんからの連絡だった。

 一番最初については、用事がないのにホームを出られないため彼がバイトをしていると嘘をついているためだ。いつ見ても文面からは〈旦那さん〉の無害な人の好さがにじみ出ているため少々嘘をついていることが心苦しくはある。しかし彼にとっても廃墟での息抜きは、精神衛生上の死活問題だった。

 最後の文章については、たぶん、また〈不良〉が暴力沙汰を起こしたのだろう。こりゃ、家に帰ったらまた〈ガリ勉〉が荒れるに違いない。炭酸水を、ということは〈専門家〉も酒を飲むつもりらしい。

(なんにせよ。なるようになるだろう)

 色々と懸念事項はあるものの、彼には夜食の料理当番と新しく追加された買い出しという仕事がある。基本的に受け身な姿勢で、流れに身をゆだねて摩擦を少なくしたがる彼は考えすぎても仕方がない、と早めに切り上げて家路を急ぐことにした。

 

  *  *  *  


「ただいま」

 玄関から声をかけると、あちこちから「おかえり」の声が上がる。彼の妹を除けば苗字も違い、血もつながっていない、家庭型児童養護施設〈そよ風の庭〉の住人たちだった。 

 荷物を部屋に置いてからもう一度リビングに戻る。

 頼まれていた買い物の品を渡した相手が〈旦那さん〉である。小柄な身体に人懐っこい笑顔が素敵なこの人は彼の家事の師匠でもある。同時に〈専門家〉の夫として、常によき聞き役として荒みやすい〈専門家〉のことを支えている。〈旦那さん〉は彼に礼を言ってから

「久子はまた今日遅くなるんだって。大河君がまた喧嘩の騒ぎを起こしちゃったみたいで、迎えに行っているの」

 もはや、またか、とすら思わない。

 〈不良〉はたびたび深夜徘徊や暴力騒ぎを起こしては警察の世話になり、身元引受人としてここの代表者である〈専門家〉が夜中に電話で目が覚めて家を飛び出すことすら、もはや日常の一部になっていた。

「大きなケガとかしてないならいいんだけど……」

 〈旦那さん〉は気が弱く人の良さそうな顔に心配の色を浮かべるがーー

「それは余計な心配ですよ。むしろいい薬です。少しくらい痛い目を見たところであいつが懲りないことはおれだって知っていますが、骨の1,2本でも折れてくれれば喧嘩も起こすに起こせなくなるでしょう」

 ソファに腰掛けてテレビを見ていた〈ガリ勉〉がこちらも見ずに忌々しげに言い放つ。

 高校一年になる今まで服装検査にただの一度もかかったことがないのも頷けるほど几帳面に7:3に整えられた頭髪。鋭く光る銀縁メガネ。なにより、そのメガネの奥に見える揺るぎない自律の意志をたたえた眼光が自分にも他人にも、平等に公平に厳格である〈ガリ勉〉の性質を雄弁に物語っている。

 情け容赦のない殺気だった言葉に険しく緊張する空気。空気中に棘を持つ微粒子が漂っており少しでも身動きすればその棘によって身を傷つけられそうな、団欒という言葉から連想しうる色を反転させたような状況。

 テーブルで絵を描いていた幼稚園年中の〈わんぱく〉がその重圧にたえかねたように不安そうな顔を浮かべる。それを隣で見ていた今年小学四年生になった彼の妹である恵里菜が姉のようにいたわりながら頭を優しくなでてあげて安心させようとしている。

 その姿が、まるで幼い母親のようで――と考えたときにはもう遅かった。

 このホームにくるまで一緒に暮らしていた彼と恵里菜の母親の面影を見いだしてしまい、彼は罪悪感に苛まれた。

(・・・・・・・) 

「まあ建寛君も、そんなに冷たく言ってあげなくても・・・・・・」

 と〈旦那さん〉もいつものごとく〈ガリ勉〉に棘をおさめるよう、なだめすかす。

「ねえ、〈罪人〉くんもそう思うでしょう?」

 彼に援護を求めてくるので、あいまいに同意しておいた。

 その程度で〈ガリ勉〉の態度が変わらないことは2人ともとうに知っている。

 彼にはその殺伐とした空気をどうすることもできなかった。いくらか〈不良〉に対して気の毒に思わないでもないがこれは〈不良〉の自業自得でもあるし、いちいち気にかければこちらの身が持たないので気にしないことにしていた。

(建寛だって、悪気があって大河を責めてるわけじゃないんだろうけど)

 ただ、それでもやはり空気は悪くなるし、こんな険悪な気まずさを恵里菜に味わわせることに対しての申し訳なさと、そもそも恵里菜がここへ来る原因を作った自分自身への憎悪はぬぐいようがない。

 それでも彼にはやることがあった。

「・・・・・・」

 自分自身の中で渦巻き出口を求める感情を押し殺し、目の前のことに集中しようとした。

 彼は手を洗い、エプロンを装着してから冷蔵庫の中を確認する。昨日の料理当番である〈旦那さん〉が気を利かせて補充してくれていたらしく業務用の冷蔵庫が埋め尽くさるほどの相当な量と種類の食材が詰め込まれていた。

 児童5人と〈補助員〉を含めた養育者3人を足した合計8人分の食事を用意しなければならないこの食卓では、なにも知らずにうっかり訪れた人が個人経営の飲食店かと勘違いするほど大皿小皿が机せましと並べられるのだ。

 まして、高二の彼、高一の〈ガリ勉〉、中三の〈不良〉と育ち盛りの少年が3人もいるとあっては食料を買って買い込みすぎるということは、まったくない。

(せめて、食卓くらいは華やかにしよう)

 無力な彼にできそうなことはそれくらいしかなかった。

 テーマはイタリアン。せっかく新学期が始まり心が浮き足だつはずの季節なので春の旬物をぞんぶんに取り入れることにしよう。

 頭に思い描くメニューが定めると、さっそく取りかかる。 

 メインはボンゴレビアンコ。

 ただし白ワインが切れているので日本酒で代用する。日本酒と魚介類の相性ならば用立てられないこともないと判断した。そのかわり、ニンニクやオリーブオイルを控えめにして風味を整える。

 スープには新鮮な甘みを活かした新タマネギのコンソメスープを据える。生でも食べたいくらいの瑞々しい美味しさを無駄にしないためにいつもより多めに投入する。調理中に目をやられる。

 副菜としては春キャベツを中心にした簡単な野菜サラダ。これには〈旦那さん〉お手製のニンジンベースのドレッシングを使用。

「よし、こんなものだろ」

 この〈そよ風の庭〉では、18歳での自立のために、年齢に応じて様々な家事が課題として与えられる。この手の料理は彼としては慣れたものだった。そうして出来ることが増えるたびに自分が自立に近づいているのだという確かな手応えが得られた。

(早くここを出て、迎えにいけるようにならないとな)

 いつでも彼の頭の中にあるのは、変わることのないたったひとつの願いだった。


  

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