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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
4月9日
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1ー1:廃 墟《廃墟と夜の侵入者》


 廃ビルの窓から夕景を眺めている。

 壁中のひび割れた隙間からビッシリと生い茂る植物の緑が、額縁のように黄金に近いオレンジの世界を縁取っていた。視界の右側には、夕焼けを映して燃えるように光る海が宝石でできた魚の鱗のように輝いている。視界の左側には、いくつものビルが荒れ果てた姿で立ち並んでいる。鉄筋の腐食のせいなのか、中ほどからぽっきり折れているものまであった。

 それなのに荒廃した感じを与えないのは、ここに繁殖している植物たちのおかげだろう。無機質に冷たく林立する廃ビルの森には、しかし緑の生命力が息づいている。それらが朽ち果てたコンクリートの塊を抱き留め、人為の儚さを自然の永遠の中へと招き入れるのだ。

 けれども、やはりこの雄大さと寂寥感を内包する景観にもっとも美しい彩りを添えるのは、なんといっても沈みゆく夕日の切なさだと彼は感じていた。

 大気圏の外から、人類が誕生するよりずっと前から、この地球を変わらずに照らしてきた夕日。そこからもたらされる儚くも眩しい光。景色と彼を隔てるひび割れた窓ガラスが、その光を反射するたびにいくつもきらめきが生まれた。日差しの影となって薄暗いこちらと対照的に、溢れんばかりの光に満ちた窓の外の世界。

(綺麗だな・・・・・・)

 こんなにも美しいのに。目に鮮やかで心に楽しいとも感じられるのに。

 どうしてか、いつも、胸が締め付けられる。わけもなく切なさがこみ上げてくる。

 それが無意味な感傷とは分かっている。分かってはいるけれど、彼は郷愁的な気分に浸ることが嫌いではなかった。あるいは、単に美化された過去の中にしか心の港をもたないだけなのかもしれない。

  

  *  *  *

 

 窓の外を見つめているうちに、夕闇が降り、やがて夜になった。

 そろそろ帰ろうと立ち上がったとき、耳慣れない音が聞こえた。

(・・・・・・誰かの、足音?)

 コンクリートに反響する、硬質で軽い音。何者かがこの廃ビル内に侵入してきたのだ。その事実を認識した瞬間、不意に冷たい水の中に突き落とされたような衝撃と恐怖を覚えた。

(人数は、ひとりか?)

 少なくとも足音は1人分しか聞こえない。集団じゃないなら運が良いと考えていると――。

「・・・~~・・・・・・・~~♪」

 侵入者が、なんと鼻歌を歌い出した。

 細くて、澄みとおるようなその声から性別は女だと分かる。年齢は若い印象。だが、それ以上に気になるのが、

(さすがにちょっと不用心すぎやしないか・・・)

 なんといってもここは放射性汚染による立入禁止区域なのだ。したがって、あの震災以降にここへやってくるのは、肝試し目当てのガラの悪い連中か、浮浪者か、彼のような訳ありばかり。 

 にも関わらずあの油断の仕方。裏があるとしか思われない。

 それでも、彼はこの部屋の鍵もちゃんと持っているのだから、内側から鍵を掛けてしまえばそれでなんの問題もないはずだった。それだけで彼の安全面の問題は解決されるのだから。

 ところが彼に影を落とすのは「彼ではない人間の安全面」の問題だった。

 もし侵入者の訪問理由が「侵入者自身の人命」に関わるようなものだとしたら――?

(やれやれ・・・。面倒なことになってきたかもな)

 その推測は彼にとっては不都合なものだった。とはいえ、なんにせよ一応できるだけの対策はしておかねばなるまい。仕方がないので、彼はひとまずこの廃ビルの最上階で待ち伏せてみることにした。


 最上階には水を打ったような、しん、と冷えた空気が流れていた。建物がコンクリートで出来ていることや春先の冷たい夜気のためばかりではない。それは祈りを捧げるための場所に満ちる清らかな静謐によく似ていた。

 あまりの荘厳な雰囲気に息をのんで、部屋の中へと足を踏み入れる。

 さすが廃墟というだけあって、先ほどいた部屋と同様、壁にヒビが入っていたり、窓ガラスもところどころ割れている。そんな中で、この階がほかの階と決定的に異なるところがある。

 それは天井に空いた穴から月光がさしこんでいる、ということだ。

 その月光の柱はまるでスポットライトのように床を円形に照らしている。そのことが十字架を照らす後光とおなじ神々しさで、この部屋のすみずみにまで、この世ならぬ神秘的な気配を漂わせている。

 スポットライトの中央には、白い布をベールのようにまとったグランドピアノがあった。

 ほの白い光を一身に浴びて、神秘のベールの端からからのぞく脚が透明感のある光沢でつつましやかに青白い光を放っている。それだけで、どこか特別な美しさを感じさせた。

(さて、そろそろやって来る頃か)

 この部屋に来る際に足音を気にして脱いでいた靴を履きなおす。押し戸式のドアはあえて開いたままにしておいて、その陰に身をひそめながら侵入者の襲来に備える。

「すぅーー、はぁーー・・・」

 一度だけ深呼吸して気持を整えてから、唯一の情報源である聴覚に意識を集中させる。

 足音が近づくにつれ、鼓動が高まる。心よりも正直な身体が手汗や脈拍を通して隠せない緊張を告げている。

 いよいよ靴音がすぐそこに迫る。侵入者はもう、さっき彼がいた階まで来ている。

 息を押し殺してじっとしていると、やがて鼻歌がやんだ。

 おや、と不審に思う。続いて「ぼっ」と音がする。ライターに着火したらしい。

(いったいなんのマネを――)

 飛び出しそうになると、息を大きく吸ってもう一度吐く音が聞こえた。

(なんだ、煙草か)

 つい気が緩んだ、その瞬間だった。

 彼が隠れているドア越しのすぐ真横を侵入者が通り過ぎる。

「――――!」

 高く、硬く、響く足音。彼は身動きひとつできなかった。

 侵入者が部屋の入り口で立ち止まる。さきほどの彼と同じように、この神秘的な雰囲気に思わず見とれてしまっているのかもしれない。

 ややあって、また足音が歩き出す。

 彼はドアの陰から様子を窺う。すぐそこ、一歩で手が届くほど近さにその人物がいる。しかし侵入者は宵闇に溶け込んでおり暗くてぼんやりとしたシルエットしか見えない。

「・・・・・・・」

 侵入者は少し躊躇ってから、やがて月光のスポットライトの中へと足を踏み入れた。そしてピアノの前で足をとめた。

 そのとき、はじめて「彼女」の全貌が光の下で明らかになった。


 そのとき瞳に焼き付いたその姿を彼は今でもよく覚えている。

 そして、たぶん、これからも決して忘れることはない。


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