最後の日 五
「あの子の事なんだけど……」
けいちゃんの母親が食器を洗いながら私に話しかけてきた。
食器についている水滴をフキンでぬぐっていた私の手は止まり、寂しそうな彼女の目をみつめる。
私の視線に気がついたのか、彼女は一瞬だけ私の目を見て、すぐさま手元へと視線を戻した。
「あの子、私には何も話してくれないのよ……なんで毎日へとへとになるまで体を鍛えているのか……なんで食事をほとんどとらなくなったのか……なんでいつも無表情なのか……教えてくれないのよ」
彼女の手は、何度も同じ場所を磨いていた。
何度も何度も何度も何度も、同じ場所を繰り返しスポンジで擦り続ける。
やはりというかなんというか……狂った人間に関わった人間は少しずつその影響を受け、自分の知らない間にいつの間にか狂ってしまっているらしい。この人も、少しずつ狂い始めている。
「貴方になら、話しているんじゃないかと思って……あの子は何も言わないけど、私が見てる限り貴方あの子の良い理解者みたいだから」
私は全てを知っている。
けいちゃんが何故あんなふうになってしまったのか? その疑問に対する答えの全てを、私は詳しく説明できる。
「……さぁ……解りません」
でも、教えてあげない。教えたくない。
貴方は、まず貴方の異常に気がつくべきだから。教えた所でぶち壊すに決まっているから。絶対に教えてあげない。
「そう……そうよね……あの子、必要な事以外話してくれないものね……」
……
まず、けいちゃんの事を「あの子」と呼ぶのを辞めろよな……名前を口にするのが怖いのか? 自分の尺で計れなくなった地点で「啓二」ではなく「あの子」呼ばわりか。本当に無責任。
それと、自分から聞く事もせずに私をつてに聞きだそうとするなよな……そんな卑怯な自分に気付けない……いや、目を逸らして気付こうともしないなんて、卑怯の上塗りだろう。
私は内心イライラしながらも、笑顔で「そうなんですよね。ほんと、困ります」と答えておいた。
食器を洗い終わり、私はそそくさとけいちゃんの居る部屋へと向かった。手には霧吹きとペットボトルの水を握り締めている。
部屋の前に立ちノックを二回。そして「はいるよけいちゃん?」と声をかけた。
数秒ほどしてようやく「……うん……」という低い声が聞こえてくる。その声はすでに息あがっており、もう限界といった印象を与えさせる。
「あぁ……やっぱりね」と、私は小さく呟いてドアノブを回した。
キィ……という音を立てながらドアがゆっくりと開く。そしてまず目に飛び込んできたのが床にへばりつきながら肩で息をしているけいちゃんの姿だった。
私はすかさずけいちゃんへ水を手渡す。けいちゃんは無言でそれを受け取ってゴポゴポと音を立てて一リットル全てを飲み干した。体が少しでも何かを吸収しようと必死になっているのがよくわかる。
「ぜっ……ぜっ……」
昔のけいちゃんはこんなにすぐ疲れる体じゃなかったのに……明らかに栄養不足。成長するのに……いや、生きていくのに必要な栄養すらも摂っていないのだから、こうなる事は必然である。
それにこんなに疲れているのに、汗は一滴も流れる事が無い。もうけいちゃんの体には汗をかくほどの余裕すらない。
だから私は、けいちゃんの死角から霧吹きをかける。あたかもけいちゃん自信が汗をかいているかのように思わせるため。
普通、こんな事をしていたらすぐにばれてしまうだろう。シュッシュという音がしているし、いくら死角といっても一切が見えていない訳ではないのだから。
だけどそれはあくまで「普通」での話。けいちゃんは、普通じゃないから、本当に、気付かない。
「……はは。やっときた」
……けいちゃんは、この時だけ少し笑顔を見せるようになっていた。
「ふっ……ふっ……」
けいちゃんは、ガッシリとしていた半年前の体からは想像も出来ないほどに、痩せてしまっている。今ではきっと私くらいの体重しかないと思う。つまり、四十キロを切っている。
ご飯は食べないし、毎日狂ったように運動しているし、全然寝ないし。健康でいられるはずがない。
「……けいちゃん。少しお話しない?」
「……すみません。僕まだまだ強くならなきゃいけないんで……」
「……けいちゃん。えっちぃ事しない?」
「……すみません。僕まだまだ強くならなきゃいけないんで……」
「……けいちゃん。私そろそろ帰ろうと思うんだけど」
「……すみません。僕まだまだ強くならなきゃいけないんで……」
「……けいちゃん。やっぱり私泊まっていこうかな」
「……すみません。僕まだまだ強くならなきゃいけないんで……」
最近気付いた事がある。
最初の言葉を「けいちゃん」にすれば、全ての返答が「すみません。僕まだまだ強くならなきゃいけないんで」になる。まるで壊れたCDプレイヤーのように、何度でも繰り返し「すみません。僕まだまだ強くならなきゃいけないんで」と呟く。
この事に気付いた時、本当に、狂ってしまっているんだなと、ものすごく悲しくなった。
「……けいちゃん。私のお腹の中に、けいちゃんの子供がいるよ」
「……すみません。僕まだまだ強くならなきゃいけないんで……」
私はお腹をさする。
「……けいちゃん。はやく成就させて前のけいちゃんに戻ってね……私出来る限り協力するから」
「……すみません。僕まだまだ強くならなきゃいけないんで……」
私は涙をこぼす。
「……約束だからね……お姉さんの無念を晴らしたら、絶対前のけいちゃんに戻ってね……」
「……はい」
けいちゃんは無表情のまま、低い声で、それだけを呟いた。
「けいちゃん……せめてこの子が生まれる前に元のけいちゃんに戻ってね……」
「……すみません。僕はまだまだ強くならなきゃいけないんで……」




