最後の日 四
俺は、自分を探しながら生きている。
いや、自分に探させながら……が一番適切な言葉だろう。自分に自分を探させながら、生きている。
彩子がこの部屋を出て行ってから六時間くらいが経過しただろうか。今の時刻は夜の九時を過ぎたあたり。
彩子はおそらく啓二君の所に行っているのだろう。彩子にとって心のより所だから仕方ない。それに俺自身も、もうあまり彩子とは関わりたくないと思っている。本当に彩子はよくやってくれたから……もう、俺に関わらせちゃいけない。
「私が思うにだけどさ、眠っても別に支障無いと思うんだけど」
この数時間沈黙を維持してきたのだが、テーブルの上にノートや資料を並べて物書きをしていた先生が突然静寂を突き破り、俺に話しかけてきた。
「眠いんでしょ? だったら眠ればいいと思うよ」
俺は確かに眠たくなってきていた。痛くは無いのだが、頭の左後方から円柱状の風穴があいているような感覚があり、何を考えてもそこから思考が抜け落ちてしまっているような、そんな状態だ。
「だけどさ、怖えぇんだ……眠ったらまた俺が俺じゃなくなっているような気がする」
「貴方何か勘違いしているかも知れないけど、貴方がおかしくなったのは安奈ちゃんが居なくなって精神的に参っちゃったからじゃないよ。脳挫傷や脳内出血の影響。意識がハッキリしてきているんだったら回復しつつあるって事だと思うよ。今日ここにつれてきたのはあくまでキッカケだし」
先生はボールペンをカチカチとノックして「もう大丈夫だよ」と後姿のまま棒読みでそう言ってのけた。
しかしこの先生……俺がおかしくなっていた頃とはまるで別人のような態度だ。俺がおかしくなっていた頃は年の離れた弟に接するように振舞ってくれていたというのに。
今ではまるで厄介者を見るような目で……いや違う。見てくれさえしない。たまに目があってもすぐに視線をそらされてしまう。その上おそらく意識して冷たいと感じる声を発している。
初めてこの人と顔を合わせた時の印象そのままだ。
「……先生は帰らねぇのか? もう九時過ぎてるよ」
「帰らないよ。明日貴方をまた病院に引っ立てなきゃいけないし」
「……逃げも隠れもしねぇって」
「ふぅん」
先生はゆっくりとノートを閉じ、天井を見上げて「ふぅ」と大きなため息をついた。そしてそのまま伸びをし、後ろへと倒れこんだ。それでもやはり視線はあわせてくれず、依然として天井を見上げている。
「……泊まってくのか?」
「……」
先生は天井を見上げたまま、何も答えてはくれなかった。その時の先生の表情は、冷たいとも、怒っているとも取れない、無表情を絵に描いたような顔をしていた。
「……答えてくれよ」
「……」
やはり、先生は黙り込んだままだった。
……困るな。本当に泊まっていくつもりなのだろうか。
未婚の男女が同じ屋根の下に……とかを言うつもりは無い。そんなものにはもう慣れた。俺が困るのは、先生が居ると思い出に浸り、泣く事も出来ないという事。
そう、俺は……俺は、泣きたいんだ。
安奈を思い出し、安奈に懺悔し、安奈を叱咤し、安奈を想い……泣きたい。
「……いつでもこの部屋へ帰ってこれるっていうのなら、それでも構わないけど……どうやらそうもいかないみたいだし、出来れば出て行ってくれると助かる」
「……安奈ちゃんについて、調べたんだよ」
先生は俺が話し終えると間髪いれずに話し出した。表情は、やはり無表情のまま。
それでも、さきほどとは違うという事は解った。この台詞を発した声のトーンが、あきらかに下がっている。
「……え?」
「……少しだけどね。調べたんだよ」
「……調べたって……今いる場所が解ったとか……?」
俺は鼓動が早くなるのを感じていた。ドクンドクンと、血液がものすごい早さで体内を駆け巡っているのが解る。
俺は久々に興奮している。こういった感じ……久々だ。
「違う。今の安奈ちゃんじゃなくて、昔の安奈ちゃんについてだよ」
「……昔の安奈……って」
昔の安奈について……?
何故今更昔の安奈について調べるんだ……? そんな事しても何の意味も無い。調べるとするなら、今の安奈の居場所だろう。
「……なんで今更……」
「しっかりしろ松本。今更なんて事は無いだろ。少なくとも、安奈ちゃんの事を考えるという事は、今の松本にとって大事な事のはずだ。違うとは言わせないよ」
「……違うとは言わないけど……正直、期待していた事とは違うし」
興奮しただけに、肩透かしをくらい心のどこかに穴が空いてしまったようで、全身を虚脱感が襲ってくる。
……やはり、俺は安奈が大好きで仕方ないらしい。安奈の事を知りたいという欲求は今でも健在だ。けどそれは、安奈が側に居てこそ意味のあるもの。とにもかくにも、俺は安奈に、今すぐにでも会いたい。
「……確かに俺にとって安奈が全てなんだけどさ……その話は、また今度にしてくれないか?」
「そう? じゃあこの話は彩子ちゃんと」
……彩子って。何を言うんだこの先生は。
俺は彩子という単語が出た瞬間「それは駄目だ」と脊髄反射のごとく口にしていた。彩子をこれ以上巻き込むのは駄目だろう。彩子は彩子でやるべき事があるんだから。もう俺や安奈に関わらせてはいけない。
「あいつの腹ん中には子供が居る。あいつはもう俺の事に構っている余裕なんて無いって事くらい、先生も解っているだろう?」
「違う違う。これは松本の話じゃない。安奈ちゃんの話なんだから」
「一緒だ」
「一緒じゃない。松本は彩子ちゃんの事、何もわかっちゃいない」
先生はそのまま目をつぶり、小さく鼻で深呼吸をする。
そして、また黙り込む。
先生の言葉には、きっと続きがある。何故言わなかったのかは解らないが、続きがあると思う。だから俺は「……わかっちゃいないって、何でですか?」と聞いてみた。
「……」
案の定、黙殺された。




