最後の日 三
僕は狂いながら生きている。正常とはなんなのか。異常とはなんなのか。僕にはもう判断がつかない。
姉が死んでから、そして安奈さんが居なくなってしまってから、約半年の月日が流れた。
もうそろそろ頃合かな。と考えただけで、死んでいた感情が息を吹き返すのを感じる。
「はは……」
夏が近づくにつれて、汗をかく量がどんどんと多くなってきた。百回程度の腕立て伏せで鼻のてっぺんから汗が滴り落ちる。
「いいぞ……いい調子だ……」
代謝も申し分ない。筋肉痛も無い。体はここの所すこぶる快調。
たった今計画を決行したとしても、いとも簡単に想いは達せられそうだ。何人襲い掛かってこようとも絶対に負ける気がしない。勝つことは、絶対にできるはずだ。
「はは……」
それはそうだ。僕は勝つために、この半年間鍛えてきたのだから。いつもの倍以上の訓練を、続けてきたのだから。
こんなに苦労して失敗なんてしたら……本当に僕は無価値な人間だと思い込んでしまい、死んだ感情は二度とよみがえらないような気がしてならない。
だから。自分のためにも、僕は何度だって腕立て伏せをするし、スクワットもする。もちろん腹筋運動だってやるし、走りこみだってしてるんだ。全ては強くなるため。そして、感情を取り戻すため。
「……けいちゃん。少し休んだら?」
最愛の人が、僕に話しかけてくる。
いや……最愛の人と思っている人。がもっとも適した表現のような気がしてしまう。
駄目だな……この感覚は駄目だ。最愛の人だと感じなければならないのに。感情が死んでしまって以来、どうも僕は全てがリアルに感じられなくなってしまっている。
「すみません。僕まだまだ強くならなきゃいけないんで」
「……もう充分強いよ。もう、休んでもいいと思うよ」
「駄目なんですって。万が一にも僕は負けられない。僕の負けは、姉の負けなんですから」
最愛の人は少しだけ困った表情をして、僕が普段勉強する時に使用している椅子へと腰をおろした。小さな頃から使っている椅子だからか、相当ガタがきているらしくギチギチという金属のきしむ音が少し体を動かしただけで聴こえてくる。
「はは……少し太ったんじゃないですか? 前まではそこまで音は出なかったはずですけど」
「……うん。少し……ね。本当に少しだけ……太ったよ」
僕は腕立て伏せをしながら最愛の人の顔を見る。
「はは……またまた冗談を……でもまぁ……彩子さんはもう少し太ったほうがいいですよ。貧弱を絵に描いたような体してるんですから」
僕は冗談めかして最愛の人へそう言い放つ。その時の僕の顔は、冗談を言っているような顔をしているのかどうか、知らない。知らないけど、最愛の人は「クスッ」と笑ってくれていた。
「そっかなぁ〜……私そんなでもないって。特に……お腹とか……最近気になるんだ」
最愛の人はお腹をさすりながら目を細めて笑って見せた。続けて「このままじゃあどんどん大きくなっていっちゃうかも」と言い、また笑った。
「……それでも、僕は構わないです。彩子さんは、彩子さんなんだから」
待っててくれるなら、なんでもいいさ。
僕が感情を取り戻すまで待っていてくれるのなら、どんな容姿になろうとも彩子さんは彩子さんだ。我侭で、自分勝手。だけど芯が強くて頼りになり、僕を好いてくれている、彩子さんなんだから……
「……もうちょっとですから……待っててください」
僕はより力を込めて腕立て伏せをする。
「もうちょっと……もうちょっと強くなったら、僕は奴等を倒しに行きますから……警察に捕まるかも知れないけど、僕はまだ未成年だし武器を使うつもりも無い。だから、すぐに出てきます。そしたら……そしたらさ、彩子さん」
何度腕立て伏せをしても、もう汗は垂れてこない。体は熱いというのに、もう汗は止まっていた。
「僕は、僕に戻るから。僕を、また愛してください」
最愛の人は、一瞬表情を曇らせたがすぐに笑顔に戻り「うん」と、弾む声でそう言ってくれた。
最愛の人は最近僕の母親と妙に仲が良くなり、二人で食事なんかをして来た事さえあるらしい。最愛の人いわく「将来義理のお母さんになる人かも知れないからね」だそうだ。今夜もテーブルを僕と母と最愛の人の三人で囲み、談話しながら晩御飯を食べる事になった。
「今日もご飯はそれだけ?」
最愛の人が僕の目の前に置かれているトマトを見てそう言った。僕の体を気遣ってくれているのか「もっと食べなきゃ駄目だよ」といってくれる。
「……いえ、これだけあれば充分ですから」
嘘ではない。本当に僕にはこれだけで充分なのだ。
この半年、欲が湧かなくて困る。食欲も、睡眠欲も、性欲も、今の僕には欠片程度のものしか残っていない。
最後に満足に食事をとったのはいつなのか……思い出せない。
最後に満足に睡眠をとったのはいつなのか……思い出せない。
唯一、性欲だけは覚えている。半年前の十二月二十七日を境に僕の性欲は尽きてしまい、それ以来僕は性行為も自慰行為もしていなかった。
今の僕は、本当に、無欲だ。
「でもさ……けいちゃん体壊しちゃうよ?」
「大丈夫ですって。凄く調子良いですから」
僕は小さく「いただきます」と呟いてトマトを掴み、口まで運び、小さくかんだ。
「ご馳走様」
僕はたべ残したトマトをゴミ箱へと捨てて、自室へと続く階段を上り始める。
後ろから「死んじゃうよ……」という彩子さんの声が聞こえてきた。
返答は、しない。




