最後の日 一
罪を償うという事とは、一体どういった事なのだろう?
自分を知るという事とは、一体どういった事なのだろう?
狂ってしまうという事とは、一体どういった事なのだろう?
そして……愛するという事とは、一体どういった事なのだろう?
礼奈……いや、安奈ちゃんが旅立ってから約半年の歳月が流れた。極寒のあの時とは打って変わって、今は日に日に暖かくなっていき、外出する際に半袖にするか長袖にするか迷うという、大変微妙な季節。
私はどちらかと言うと夏が嫌いで、毎年この微妙な季節が来るたびに憂鬱な気分になっていた。何故なら容赦無く降り注いでくる紫外線。この夏で三十歳になる私にとっては本当にこの紫外線というものが大敵である。肌は荒れるし染みなんかも最近気になりだしてきた。百害あって一利なしとはまさにこの事。
それに暑い。ジットリとした空気がどこに行くにも纏わり付いてきて、常に生理状態のような感覚に陥る。本当に不快。
「イライラしてんですか?」
隣を歩いていた松本君が私の顔を不思議そうな表情で見つめていた。その純粋無垢で綺麗な瞳に、少しだけドキッとさせられる。
好意からではない。心を見透かされたようで、ドキッとした。
「ん? ううん、なんでも無い」
松本君は首を小さく傾けて「……ならいいんすけど」と呟いた。そして再びポケットに手を入れて、空を見上げながらブツブツと小さく独り言を始める。
「あ〜……いい天気だ。いい天気なんだけど、まだちょっと肌寒いんだよな〜。寒いのは本当に嫌だよ。嫌だ嫌だ……嫌なんだけど、そんなに嫌な事ばっかりあった訳じゃ無いんだもんな〜」
松本君のその言葉を聴きながら「うん」「うん」と相槌を打った。松本君は別に相槌を期待して独り言を話している訳では無いのだが、なんだか私は相槌を打たなければならない義務があるように感じる。この半年間、ずっと私はそうしてきた。
「冬ってさ、嫌いなんだけど、冬になったらさ、天使が舞い降りるんだよ。本当に可愛くて、綺麗な天使。だからさ、早く冬になって欲しいって思う事もあるんだよね。不思議なんだよね、嫌なのに、待ってるんだ。冬になるのを、待ってるんだよ」
「うん。うん」
「そうだよね」
後ろを歩いていた彩子ちゃんも、小さく呟く。少しだけ暗い表情を作り、俯きながら、元気の無い声で松本君の独り言に対して私と同じく「うんうん」と相槌を打っている。
「なんかさ、去年と一昨年はいつも寒かったような気がするんだよね。春になっても、夏になっても。だけど不思議なんだ。冬が近づくにつれて、暖かくなって行ったような気がするよ。きっと天使のおかげなんじゃないかな〜って思うんだ」
私と彩子ちゃんは、同時に「うん」と呟いた。
「さぁ、着いたよ。ここが貴方のお部屋」
私は左手を掲げて古い二階建てのアパートを示唆した。決して部屋の玄関までは連れて行かない。私が出来るのは、ここまで。
あとは、松本君本人が行かなければ。松本君本人に、自分で選んでもらわねばならない。そうしないと、きっと松本君は、ずっとこのまま。しかし、もし自分で正しい部屋を選べるのならば、松本君は、回復の兆候を見せるような気がする。
これは予感ではなく確信。何も根拠の無い、確信だった。
「うん。ここ……だね」
松本君はアパートから少し離れた歩道に立ち、アパートを舐めるように見続けた。
その姿は懐かしんでいるようにも見える。目を少し細め、微笑みを浮かべていた。
「……えいちゃん……」
「彩子ちゃん」
私は不安そうな表情を浮かべている彩子ちゃんの肩をポンと叩いて笑顔を作ってみせた。私のその笑顔につられてか、彩子ちゃんはぎこちなく、少しだけ微笑む。
「大丈夫だよ。彩子ちゃん」
私は、絶対の自信を持って彩子ちゃんにそう告げる。しかし罪を清算しようとしている彩子ちゃんにとってこの瞬間は気が気では無いのだろう、微笑んではいるのだが、彼女の目は決して笑ってはいなかった。
「……はい」
彩子ちゃんはそれだけを言い、両手を合わせて互いの指を絡ませた。
アパート前に到着して三十分は経過しただろうか……松本君はようやくアパートを眺めるのをやめ、小さく「チッ」と舌打ちをした後、黙り込んでいた口を開いた。
「……先生。鍵ってかかってるんですか?」
「かかってないよ。彩子ちゃんに頼んで開けておいて貰ったから」
「そうですか」
松本君は「ふぅ〜」と肺の中に溜まっていた空気を全て吐きつくし、すぐに大きく深呼吸をする。
「んじゃ、いってくる」
ポケットにはもう、手を入れていなかった。
後姿は、さきほどとはまったく違う印象を受けた。
足取りも、軽やかとは言えないが決して危うくも無い。
そして何より、彼はまっすぐに、自分の部屋へと向かって歩き出している。
「……ほら。言ったとおりだ」
私がそう呟くと、彩子ちゃんは泣き出してしまった。
号泣という言葉がもっとも適切だろう。彼女は、両手で顔を覆いながら、号泣していた。
「どう表現したらいいんだろうな……ちょっと前まで、霞がかっていた意識だったとでも言えばいいのか……自分は自分なのに自分じゃないとでも言えばいいのか……どれも適切な表現じゃないけど、どれもが正しいような、そんな感じだ」
松本君は部屋の中央に立ち、耳の後ろをポリポリと掻き毟りながら、鋭い視線で部屋をキョロキョロと見渡していた。
これが素の松本君なのかと思うと、なんだか嫌な気分になってしまう。
「今だって……少し霞がかっている気がする。少し自分が自分じゃないような気がする。だから眠るのが怖い。朝起きたら、また完全に頭に霞がかっていたらどうしようって、自分が自分じゃなかったらどうしようって、思うというより、感じる」
「そんなっ……!! えいちゃん……!! しっかりしてよっ!!」
彩子ちゃんが必死な表情で松本君の体へと抱きつく。抱きつきながら、泣いている。
「……頑張ってはみるつもりだ。だけどよ……」
松本君は左手を上げて、もともと薬指があった場所を右手で撫でる。
「……だけど、もう安奈は居ないんだ……安奈が居ないから俺は狂った……」
松本君は愛しそうに、もともと薬指があった場所を撫で続けた。彼の目には、彩子ちゃんも、私も、映ってはいないようだった。




