命を舐めるなよ
朝になっても、松本さんは動かない。ピクリとも動く気配が無い。
今日はもう退院する日だと言うのに……こんな調子じゃあとてもじゃないがホテルなんか……
「……もぉ、私ったら……」
私は自分の頬を強くパンと叩いた。
そうだ、何もホテルに行くだけが楽しみじゃないだろう。松本さんとの生活。これが私にとってとても大きなものになっていくはずだ。
一緒に買い物をして、一緒に映画を見て、一緒に散歩して、一緒に……愛を確かめ合って。
そんな幸せな生活がこれから待っているんだ。だから今日はもういいじゃないか。松本さんは病み上がりなんだし、おとなしくあの部屋に戻ってゆっくりテレビでも見ようじゃないか。
そう……焦る事は何も無い。私達にはもう乗り越えるべき心の壁は無い。
お互いに、狂っているんだから。私達にはもうお互いしか居ない。
「まづもどさぁん……」
私は松本さんの胸に頭を乗せた。
すると確かに感じる松本さんの鼓動……体温……呼吸……生きてる証。
それらが愛しくて愛しくてたまらなくなる。
愛しくて愛しくて、欲しくなる。
「まづもどさん……」
「安奈ちゃんさ、そろそろ帰ったらどうかなって思うんだけど」
机に座って何か書き物をしていた女医さんが何度目かの同じ言葉を私にかけてきた。
「嫌ですよ。だって、ぎょうでまづもどさん退院なんだがら。だから、まっでいたいんです」
私は松本さんを待っているという事を繰り返し伝えていた。何度も帰らないと伝えているのに、何故何度も同じ事を言ってくるのか、理解できない。
「……そう」
女医さんは少し複雑そうな表情を浮かべ、ボールペンをカチカチと鳴らしながら机へと視線を移した。
私はその様子を確認し、再び松本さんの名を呼びながら松本さんの胸へと頭をうずめる。
……あぁ。幸せだ。幸せだよ、松本さん……
もう私には松本さんしか居ない……彩ねぇも、けいちゃんも、もう二度と会ってはくれないだろう。私はそれだけの事をしてしまったのだから。
だけどいいんだ。私は松本さんがいてくれるだけで充分なんだ。満たされるんだ……
松本さんは、私の、希望なんだから……
この診療室の椅子に座り続けて何時間が経過しただろう、早朝7時頃。この診療室に置いてある電話機が突然鳴り出した。女医さんはすかさず受話器を取り「小林です」と答え、受話器に向かって何度か相槌を打つ。
「……はい。はい。あ、そうなんですか。はい、解りましたそう伝えます」
手短に会話を終えたかと思うと女医さんは笑顔で私のほうを向き「喜んで安奈ちゃん」と弾んだ声で嬉しそうに話しかけてきた。
「彩子さんの意識が回復して、今貴方をよんでるってさ」
女医さんのその言葉を聴いて、私の体は無意識のうちにビクンと跳ね上がる。
「……え?」
「だから、彩子さんの意識が回復したって」
「彩ねぇ……助かったんですか」
「詳しくはわかんない。会って確かめてきたら? 本人も呼んでるみたいだし」
女医さんは「本当は面会謝絶状態なんだけど、特別だって」と付け加えた。
そうだった。
私、彩ねぇを、刺したんだった。
優しくて、気丈で、強くて、格好よくて、我侭で、先導的で、頼りになって……素敵な。
彩ねぇを、刺した。
優しくて、気丈で、強くて、格好よくて、我侭で、先導的で、頼りになって、素敵なのに、私を認めてくれないから刺したんだった。親友だって言ってくれたのに。抱きしめあいながら眠ったというのに……認めてくれなかったから刺したんだった。
安奈が……刺した。安奈が私に、刺させた。
お腹の中が、うずく。安奈が自己主張する。
痒くて、痒くて、仕方がない。お腹というより、中が痒い。内臓を取り出してかきむしりたくなるほどに、中が痒い。
「……会わせる顔なんて」
「そうだよね、今まで彩子さんの事なんてすっかり忘れてたもんね。松本君の事で頭がいっぱいになってたもんね」
「……え?」
私に背を向け、右手でボールペンをカチカチ音を立たせながら、女医さんは少し怒ったような口調でそう言い放った。
その後ろ姿の印象は、やはり少し怒っているような印象を受ける。
「命を舐めるなよ〜礼奈」
「……れ……礼奈じゃない」
私は小声で否定する。命を舐めている事をではなく、私が礼奈ではないという事を否定する。
「ずれた事言って誤魔化さないでよ。そもそも自分の事を安奈と名乗っている地点で、礼奈は命を舐めているよ」
女医さんが握るボールペンから発せられるカチカチが、徐々に早く力強く聴こえてくる。
「だ……だから私は礼奈じゃないよ」
再び、小声で否定する。
「まぁ、礼奈ちゃんが安奈と名乗るのは別にどうでも良い事なんだけどさ、とにかく今、彩子さんの所に行ってきなよ。せめて筋は通さないとね」
女医さんの私を見る目が、悲壮なものへと変わっていった。
……いや、私を哀れんでいるようにも、見える。見えて仕方が無い。
「……はい」
私は女医さんの迫力に負け、小さく、返事をした。




