カチカチ
ボールペンのカチカチという音が静かな診療室に響く。それ以外の音は存在しない。この場はカチカチが支配していた。
「……」
「……」
松本君はどうやら錯乱を起こし、頭に負担をかけすぎて倒れたらしい。
本人に説明しておけばこうはならなかったのか? などと考えてしまい、少し心が痛む。
「……」
「……」
そういえば、意外にも安奈ちゃんは冷静だった。
この診療室を飛び出して行った時は院内がパニックに陥るのでは無いかと思われたが……看護師と一緒に松本君の体を運んで来た時にはすっかりと落ち着いており、その冷静さがむしろ怖いくらいだった。
今だって。静かに松本君の顔を眺めている。カンシャクを起こしたり錯乱したりせず、しっかりとした目つきで、表情で、松本君を見つめている。
……私には理解できないな。人の死に毎日直面している私でも、今の安奈ちゃんの心境が全然わからない。悲しいのか辛いのか落ち込んでいるのか鬱なのか。もしかしてそのいずれでも無いのか。安奈ちゃんの表情からは、何一つ汲み取る事が出来ない。
私はしきりにボールペンをカチカチと鳴らす。静寂が耐えられない。
「……」
「……」
「……」
「……あは」
「……ん?」
安奈ちゃんが突然小さく笑う。その声はとても乾いた印象を受けて、やはり怖い。
「……いえ、まづもどざんね、ざっき言っでくれたんですよ」
「……なんて?」
「ずっと一緒に居るって」
……なんて声をかければいいんだろうな。なんて言えば安奈ちゃんは納得するんだろうな。
嫌になるほど告げてきた言葉なのに。嫌になりすぎてもう何も感じなくなっていたと言うのに。
この子を前にしたら、何故だか急に感情が高ぶってしまう。今まで通りではいられなくなってしまう。
「……良かったね、安奈ちゃん。安奈ちゃんにとってすごく大切な人なんだもんね」
「……うん。まづもどさんと一緒なら死んでもかまぁないです」
この子の目は、本気だ。本気でそう思っている。
正直、狂っていると思う。松本君もそうだけど、安奈ちゃんも、そして安奈ちゃんを取り巻く環境も。全てが、狂っていると思う。
だから、安奈ちゃんは狂わざるを得なかったんだろうな。狂う事で、自分を保っていた。そう思わせられる。
「……そっか」
「うん、そう」
安奈ちゃん……いや、礼奈ちゃんの過去について、私は全てを知っている訳では無い。
むしろ断片的で不確か。噂程度の事しか知らないのだが、その「噂程度」の知識でも、礼奈ちゃんがどれほどの過去を生きてきたのか、そして何故狂ったのかは、良くわかる。
礼奈ちゃんは四年程前、交通事故にあった。ひとつ年下の妹である安奈と一緒に学校から帰宅している途中に、ひき逃げにあってしまい、某大学病院へと運び込まれた。
しかしその大学病院が、良くなかった。
そこの助教授である当時四十二歳の飯田が彼女らの手術を担当したのだが、表向きでは手術は失敗したという事になり、二人とも死んでしまった事になっている。
しかし彼女らは、生きていた。礼奈ちゃんは本物の犬の耳と尻尾を付けられ、安奈ちゃんは天使の羽を模した装飾品を無理矢理背中に埋め込まれてしまったらしい。
……飯田は、こういった事を何度も繰り返し、闇バイヤーを相手に人身売買をしていたそうだ。交通事故すらも飯田の差し金だというもっぱらの噂だが……私はそれすらも本当のような気がしてならない。
しかし礼奈ちゃんと安奈ちゃんは売られる事は無く、飯田の研究室の奥の奥、まるで監獄のような場所にひっそりと隠されていたそうだ。
礼奈ちゃんは、飯田の最高傑作らしく本人が気に入ってしまい売るのが勿体無いと思ってしまったから。安奈ちゃんは、醜くて売り物にならなかったから。だそうだ。
実際目にした訳では無いのだが……安奈ちゃんは、本当に酷いものだったらしい。
背骨が曲がってしまい、まっすぐに立つ事が出来ず、顎が膝についてしまうのではないか? というほど極度な猫背になってしまったらしい。
しかも背中に埋め込まれた装飾品は上手く埋める事が出来なかったらしく、地面へと垂れ下がりまるで汚いモップが背中からはえているように見えたらしい。
だから、飯田の態度も極端だったらしい。礼奈ちゃんを愛し、安奈ちゃんを拒絶した。
その後の事は良く知らない。礼奈ちゃんが飯田を殺したのか、安奈ちゃんが飯田を殺したのか。そして何故礼奈ちゃんが安奈ちゃんを殺したのか、何故礼奈ちゃんが安奈ちゃんを名乗っているのか、知らない。
知らないが、ひとつだけ解っている事がある。
それは、この子は、人を殺しても、決して訴えられないし、刑に服す事は無いという事。
少なくとも礼奈ちゃんは、二人の人間を殺している。
まずは安奈、そして飯田の息子。この二人は、間違いなく殺している。
しかし彼女は刑務所には決して入らない。何故なら医学会が表沙汰になる事を恐れているから。裏で絵を描いているのは医者の集まり。医学会。人が死んだってなんとでもなる。なってしまうんだ。
この病院にも、連絡が来た。礼奈を見かけたら、すぐに連絡をするように、と。しかし礼奈に事情を話す事は決して許さない、そして確保する事も許さない。自由にしてやれ、と書いてあった。せめてもの罪滅ぼしのつもりなのだろうか、まったく、胸糞悪い話だ。
再びカチカチが場を支配する。
カチカチだけが、この診療室の時間が動いている事を教えてくれた。




