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安奈  作者: はにゃにゃき
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生きる希望だって

 さきほどまでは誰も通らない非常階段の四階と五階の間に居たけれど、私は立たない足腰を松本さんに支えられながらなんとかこの簡易食堂へと移動していた。

 松本さんは私を椅子へと座らせると「とりあえず、何か飲み物買ってくる」と言い、私の体を気遣ってかレモン味のジュースを二本買ってきてくれた。そのジュースを一口すすると、まるで乾いた砂が水を吸収していくように、染み渡る。

「……」

「……美味いだろ?」

「……うん……」

 松本さんは私のこの声を聞いて少し笑顔になった。その笑顔がなんだか少し遠いような気がして、寂しい。

 松本さんは私の対面に腰をかけようとする。しかし松本さんも少し疲れてしまっているのか、椅子に座る寸前に足をもつれさせてしまい、ガタガタという音を立てながら椅子によりかかった。その様子を見ていた私はとっさに「大丈夫?」と声をかける。よくよく考えてみれば松本さんは今怪我をしているんだ。それなのに私は松本さんに体重のほとんどを預けてここまで来てしまった……悪いことしたな。と、少し反省する。

「あぁ」

 松本さんは少し耳の後ろを掻きながら「変だな」と呟き、もう一度椅子の位置を確かめてゆっくり椅子へと座った。そしてレモンジュースの蓋をあけ、ゴポッという音を立てながら一気に半分まで飲んで「……ふぅ」という声を漏らす。

「……しかし、彩子も啓二君もどこいったんだろうな」

 松本さんは辺りをキョロキョロと見回した後にそう呟いた。

 私達は最初病室に足を運んだのだが彩ねぇの姿もけいちゃんの姿もなく、ただただ静かに時計の針が進む音がカチカチと聞こえてくるだけであった。

「……どこ行ったんでしょうね」

 私は適当に相槌を打つ。そう、今はそんな話をしたい訳ではない。どうして松本さんは愛してくれているのにもう私を抱かないなんて言うのか……そしてどうして愛してくれているのに「もう知らない」なんて言えるのか……問い詰めたくて仕方が無い。

「ねぇ……松本さん……」

「ん?」

 松本さんは笑顔で私の顔を見た。

「松本さん……私の事好きなんですよね?」

「……あぁ、大好きだ」

 松本さんは笑顔を崩さずそう答えた。頬を赤く染める事も無いしはにかむ様子も無い。堂々と、胸を張って答えている。

 それはとても嬉しい事。恥じる事もなく動じる事も無く「大好きだ」と言ってくれる人が居るなんて、本当に幸せな事。今までの私からは想像も出来ない夢のような言葉。

 それでも私は、不満だ。好きなら、愛しているなら、抱いて欲しい。私で性欲を満たして欲しい。私だけに欲情して欲しい。私も喜んでそうするから。そう思う。

「……それなのに、どうして……」

「何が?」

「どうして、抱いてくれないの?」

 私のこの言葉を聴いて、松本さんは急に笑顔を崩し、難しい顔をした。そしてもう一度レモンジュースを一口ズズという音を立てながらすすり、ため息をついた後にゆっくりと口を開く。少し、悲しい表情をして。

「別に純情ぶるつもりは無いんだ……セックスがしたいなら、してやっても構わない。俺だって……正直嫌いじゃない。だけどな、お前が狂う事とよごれる事が本当に嫌なんだ。そんなお前を見たくない」

 狂うという事は、愛しているという事。どうしてそれを解ってくれないんだろう。解ろうとしてくれないんだろう。

 それに狂わないと……私は快感を感じない。満たされない。寂しい気持ちになってしまう。悲しい気持ちになってしまう。だってそれは私にとって仕事と同じ……激しく求め合うからこその愛。仕事じゃなく愛ゆえに狂える。何故それを解ってくれないのか。そんな松本さんが、わからない。

「よごれてなんかいないよ……松本さんは、私の過去を色々と清算してくれているもん……松本さんに抱かれる事によって、私の中の汚いものがどんどんと抜けていくような気がしてるよ……」

 松本さんは私の言葉を聴いて、少し押し黙る。どうやら少し悩んできているようで、その様子を見た私はここぞとばかりに言葉を投げかけた。

「だから、愛して欲しいの。私の中に詰まっている汚い部分を、全て松本さんの手で掻き出して欲しいの。松本さんで、私の中を埋め尽くして欲しいの。解ってください」

 胸に手を当てて、真剣な表情で、松本さんの眼を見ながら。心の叫びを松本さんへと伝えた。

 そうだ、これが私の本音。私の中を、松本さんでいっぱいにして欲しい……昔の事や嫌な事を思い出さなくなるくらい、私を松本さんの色で埋め尽くして欲しい。

「狂う事を嫌うのは、解るよ……まるで獣のような顔をして求めてるんだと思う」

 私はニット帽子から出ている耳を触って少しはにかんだ。その様子を見て松本さんは少し暗い表情を作る。

「でも、よごれてなんかいないから……松本さんは間違いなく私の心を綺麗にしていってくれてる。だって松本さんは、私にとって生きる希望なんだから」

 テーブルの上に置いてあった松本さんの手を握る。その手は、少し冷たい。

 私はその手を温めようと、両手で掴み、ゆっくり優しくこする。この指はさっきまで私の中に入っていた指……私の中の悪いモノを掻き出してくれる指……とても愛しい気分になる。

「……私、贅沢言ってるけど……迷惑かも知れないけど……生きる希望だって、本気で思ってますから」

 生きる希望……今の私にとって、松本さんは本当にそう言い切るに足りる存在になっていた。彩ねぇも、けいちゃんも、生きる理由には当たる人達だが、希望と言われると違う気がする。

 私の中で、もっとも輝いている存在。それが松本さん。

「大好きなんです……松本さんが」

「……じゃあ、話してくれ」

 松本さんは難しい顔をしたまま、私がさすっている手を見ながらそう言った。

「何を?」

「お前の過去」

 過去……その言葉を聴いて、衝撃が走った。背筋が凍り寒くなる。急激に体温が下がる。

「……え?」

「……お前の過去を聞いて、決める」

 歯がガチガチと音を鳴らし始める。松本さんの手をさすっていた私の手も止まる。

 あまりの寒さに腕を抱いて寒さを和らげようとする。今度は自分の腕をさする。

「……そんなに目ん玉ひんむいたら、とびだしてくるぞ」

「あ……あ……」

「……やっぱ話せねぇか」

 過去にも一度、私の過去について松本さんに聞かれた事がある。

 その時も私はガチガチと震え、腕を抱きながらうずくまってしまった。そんな私を見て松本さんは「もう聴かないから」と言って私を抱きしめ暖めてくれた。それ以来ずっと聴いてこなかったと言うのに……なんで今更その話が出てくるのか……

「やだ……やだやだ……」

「……別に、いつでもいいんだ。話せるようになったらで全然構わない」

 松本さんはそう言って椅子から腰をあげて私の後ろに立ち、ゆっくりと優しく私を包み込んでくれた……

「……信頼してるなら、話せるとは思うんだけどな。仕方ないよな……」

 松本さんは私の耳元でそう呟き、ギュゥッと私の体を抱きしめた……


 それでも、やっぱり寒い……

 震えは治まらなかった。

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