狂っている
「えぇ!?」
安奈さんは突然着ていたコートを脱ぎだした。いや、コートだけではない。上着も……着ていたチャックの付いている黒いパーカーも、一瞬の間に脱ぎ捨てていた。
「安奈さんっ!!」
僕は慌てて安奈さんに駆け寄った。安奈さんはすでにパーカーの下に着ていた長袖ティーシャツに手をかけている。
一体……何を考えているんだ?ここは公衆の面前。人は少ないとは言え、ゼロじゃない。
キスをするまでは……くそ……キスをするまではまだ解るけど、それ以上は、犯罪だ。
僕は急いで脱ぎ捨ててある安奈さんの黒いコートを拾い上げ、一度バサッと埃をはらってから安奈さんの肩へとコートをかけた。
「何考えてるんで……」
僕は少し強い口調で「何考えてるんですか」と言おうとした。しかし、安奈さんの顔を覗き込んだ瞬間、言葉が詰まる。
安奈さんの表情……安奈さんの表情が……
焦点という言葉がむなしいほどにギョロギョロとする安奈さんの薄くにごった眼……声は出ていないのに口が半分開いていて、ヘラヘラとした印象……綺麗な顔立ちだけに、その表情は……怖い。どう表現したらいいのか解らない。例えるものが見つからない。だけど該当する言葉ならひとつだけ思いつく。
……狂っている。
「ま……松本さん……」
僕は思わず松本さんの名を呼びながらすがるように松本さんの顔を見た。松本さんは少し悲しそうな表情をするだけで、何もしない。何も言わない。ただただ安奈さんを黙って見ていた。
僕には……どうしていいか解らない。というより人がこんな状態になるなんて信じられない。今まで見たことない。人が……こんな顔を出来るなんて……こんなに……こんな……
そう思っていた矢先、また安奈さんはコートを脱ぎ捨てて、ティーシャツに手をかける。そしておもむろに裾をめくり上げ、白い安奈さんの肌がヘソの上まであらわになった。
「うわっ……」
僕は思わず目を背ける。見てはいけない……僕にはその資格が無い。それに僕が見たら、また空気を読まず……膨張するに決まっている。
「まっ……松本さん……止めてください!」
「……解ってる……解ってる……」
松本さんはそう言うと、安奈さんの頬をバシンと、平手で叩いた。
「安奈……戻れ」
平手打ちを浴びせられてなおも服を脱ぎ続ける安奈さん。淡々と、いつもそうしているようにどんどんと服を脱いでいく。
バシン、と、松本さんは再度安奈さんの頬を平手で叩く。その音が静かなフロアによく響いた。
「安奈……戻れよ」
「松本さん……そんな叩かなくても……」
僕は思わず声を出した。
松本さんは……手加減はしてるのだろうが、安奈さんの頬に何度も平手打ちを浴びせていた。さっきまで……抱き合ってキスをしていた相手に……少し悲しい印象を受けるが、無表情で、何度も、何度も、平手打ちを浴びせている。
バシン。バシン。バシン。バシンと、テンポ良く音がなり続ける。
「戻れ。戻れ。戻れ。戻れ」
「あぁ……松本さんやめてください……」
僕は見ていられなくなり、松本さんの腕にそっと手を添える。
これ以上は……見たくない……愛する人に暴力を振るう現場なんて……見たくない……
僕は応援しているんだ……貴方達を。そりゃ、悔しいけど。そりゃ、複雑だけど。貴方達には本当に幸せになってもらいたいと思っている。
だから、もう、やめてほしい……
「……止めるって事は、啓二君が安奈を正気に戻してくれるって事か……?」
松本さんは小さくため息をついた後、おもむろに耳の後ろをガリガリと掻きながら僕の顔を見てそういった。
その表情は、やはり無表情……
「……いえ……無理です……でも、もう見てられなくて……」
「……安奈と付き合っていくには、覚悟が必要なんだ。中途半端な事では、安奈とは付き合っていけない」
松本さんのその言葉を聴いて、僕は急激に理解した。
そうか……そういう意味もあって、僕には無理と言っていたのか……と。
確かに、僕には無理だ……安奈さんの頬を打つなんて、僕には到底出来そうも無い。
それに僕はやはり、どうしていいのか解らなかった。狂った状態の安奈さんを目の当たりにして、頭の中を真っ白に染め上げる事しか出来なかった。
なんて無力……僕は、なんて無力……
「安奈……解ったよ……」
そう言って松本さんはティーシャツをまくろうとしている安奈さんの腕をガッと握る。
握ってそのまま思い切りひっぱり、ひと気の無い非常階段のほうへと歩いていった。
「……浄化してやんよ」
松本さんはそう言ってぐいぐいと安奈さんを引っ張っていく。
その様子をただただボーゼンと眺めていた僕……僕は、何をするべきなんだ?僕に出来る事……何かないのか?
そんな事を停止しようとする思考の中、必死に考えていた。必死に、何かが出来ないのかと。
「……安奈を正常に戻すから……ついてこないでくれ」
僕は無意識のうちに松本さんの後を追っていたらしく、松本さんは悲しそうに震えた声で、後姿のまま僕にそう告げる。
僕は力なく「……はい」答えた。結局は……僕に出来る事なんて無いと言われたような気がして胸が痛くなる……
二人の後ろ姿を眺めながら、思う。
一体松本さんは何をすると言うのだろうか……? 浄化って一体?
【後書き】
最初にアップしていた五十二話は手違いで見直し前の五十二話でした。
まぁたいして変わらないかも知れませんが、こっちが正しいやつです。すみません。




