業
何故この違和感に気がつかなかったのか?それは、自分の事で頭がいっぱいになってしまって、考える事なんてちっともしなかったからなんだと思う。
私は昨日から思っている。安奈ちゃんが好きで好きでたまらないと。出来るならこのまま一生一緒に居たいと。絶え間なく、ずっとこんな馬鹿な事を思い続けていた。ずっと腑抜けていた。
考えれば、すぐにこの違和感に気がついたはず。私が気がつかない訳無いはず。
「岩本さん……よね? 岩本彩子さん」
私は病院の出入り口で後ろからその中年女性に話しかけられた瞬間、背筋を冷たい手で撫でられたような、そんな悪寒を感じた。
一年以上前、何度も聴いていた女性にしては妙に低い声。この声の主は松本有香。えいちゃんのお母さんにあたる女性が持つ声。
「彩子さんでしょ? 栄太の彼女の」
「お……お久しぶりです」
そう、私の違和感。それは、昨日も一昨日も、えいちゃんの家族が一人もお見舞いに来なかった事。
私は一昨日病院に到着してからすぐにえいちゃんの家族へと連絡した。えいちゃんの実家の電話番号は解らなかったが住所はわかっている。だから電話帳ですぐに調べ上げる事が出来た。
その時有香さんはとても慌てた様子で、手続きなんかを私に任せて、自分もすぐに病院へと駆けつけると言っていたのだが……あの日は有香さんの姿は確認していなかった。というより、安奈ちゃんの事が気になりすぎて有香さんの事は忘れていたのだ。
そして昨日も。昨日も私達は病院にお見舞いに来ていたというのに、病室には有香さんの姿は無く、寂しそうなえいちゃんだけが一人ベッドで横になっているだけだった。見落とし等ではなく、本当に一切見かけなかった。そして有香さんの事、えいちゃんの家族の事、すっかり忘れていた。今考えればかなりおかしい状況だというのに、違和感にも感じていなかった。
「松本さんの……おかあさん……?」
安奈ちゃんは少し困惑した表情で有香さんの顔を見る。確かに安奈ちゃんにとっては気まずい場だろう。えいちゃんはおそらく安奈ちゃんと同棲している事は有香さんに話してなんていないだろう。どう話していいか解らないはずだ。
それを安奈ちゃんも解っているようで、とてもおびえたように震えながら私の手を強く握り返してくる。
……だけど、ごめん安奈ちゃん。私は今嫌な想像をしている……いや、想像と言うより、予感。嫌な予感が頭を駆け巡り続け、とてもじゃないけれど助けてあげられそうもない……
「……あ……あの、有香さん……」
私が有香さんにそう告げると同時に、有香さんは難しそうな表情を作り私の空いているほうの手を強く握ってきた。突然の出来事に面食らってしまう。
「有香さん……?」
「貴方に、話したい事があるの……」
嫌な予感……最近は良く当たっている。
「話したい事?」
私は必死に平静を保ってそう聞き返した。それでもやはり声は多少震えてしまう。
「ここじゃちょっとなんだから……」
ここは病院の出入り口。沢山の人の目が付き、沢山の人が出入りする。確かにどんな話をするにしても、ここじゃちょっと……だ。そして私の予感が正しければ、この話は安奈ちゃんに聴かせる事は出来ない。出来るはずが無い。
「安奈ちゃんとけいちゃんさ、悪いんだけどちょっと先に松本君の病室に行っててくれるかな?」
私は二人に振り返り、精一杯笑顔を作りながらそう言った。
必死に、必死に、平静を保ちながら。いつもの私の印象と違わないように。
「……あ、はい。解りました」
けいちゃんは安奈ちゃんの黒いコートの袖をちょいとつまみ、「いきましょう」と言った。
当の安奈ちゃんはというとまだ少し不安そうな顔をしながらも、けいちゃんのその言葉に少し救われた気分なのだろう、かすかに安堵の表情を浮かべながら「……うん」と言い、けいちゃんの腕に引かれるように病院の中へと入っていく。
私はその姿を見送りながら、少しだけ湧いてきていた涙を袖でぬぐった。
「脳挫傷……らしいの……」
私と有香さんはひと気の無い一階の待合室へと足を運んでいた。私の右手には有香さんが買ってくれた缶コーヒーが手付かずのまま握られている。
「どの部分の脳挫傷なのかわからないの……だけど確実にその症状が出てるのよ」
やはり、最近の嫌な予感は良く当たる。本当に、嫌になるほど良く当たる。私が思っていた通り今まで有香さんと私達は同じ病院に足を運んでいたというのに顔を合わせなかったのは、有香さんはえいちゃんにでは無くお医者さんに会いに来ていたからだった。
「この病院に栄太が運ばれてきた時はまだまともな検査もしていなかったし、お医者さんも忙 しかったらしくて……だけど今日の検査でハッキリしたらしいの。英太は脳挫傷になってるって」
本人はまだ自覚していないのかも知れないが、簡単な計算が通常の人より遅くなってしまっている。そして答えとして書いた数字はまるで右腕が麻痺しているかのようにプルプルとよれた字になってしまっているらしい。さらに昨日の深夜、ブツブツと十分ほど独り言を呟き、急にイライラが溜まりきったかのように「あーーーっ……!!」と小声で叫んでいたと同室の患者さんが話していたとの事。
「本来はね、軽度の脳挫傷なら一週間から二週間で症状がわかるらしいんだけど……英太の場合その日のうちに症状が出てきて……もしかしたら重症かも知れないって……」
有香さんは話している最中、何度も涙ぐんでいた。そのたびに「ごめんね」と私に向かって謝ってくる。
謝らなきゃいけないのは、私のほうだと言うのに……
「……でもね、まだ吐き気を訴えてこないし目眩も無いみたい。言葉もはっきり話せるし会話も問題ないって」
有香さんは涙でグチャグチャになってしまっている顔でニコッと笑ってみせてくれた。きっと私を励まそうとしてくれているのだろう。この人は、まだ私とえいちゃんが付き合っているものだと思っている。だから私にこんな話をしてきたんだ。
「私もそう思います。昨日松本君とお話したんですが、いたって普通の松本君でしたよ」
私は、自信ありげにはっきりとした口調で嘘をついた。
「そう……そうよね。大丈夫よね」
有香さんは笑顔のままハンカチで涙をぬぐった。
「脳挫傷って、基本的に自然と治るのを待つ事しか出来ないらしいの。あつかましいお願いだって事は解っているんだけど……英太が治るまでの間、あの子の力になってあげてくれない?」
あぁ、私は……
「はい。任せてくださいお母さん」
私は……業に溢れてしまった……




