1ー5:Ich lebe in dieser Welt
書斎を照らすランプの灯りが僅かに揺れた。
そういえば……あの黒猫は何処に行ったのだろうか。侯爵の城で別れたとき、後の事は全部任せた、みたいな事言ってたけど。
『さて。今日はもう遅い……今後の身の振り方は明日ゆっくり考えるがよい』
メアリム老人はそう言うと、書斎の扉に控える執事のクリフトさんに目配せをする。クリフトさんは右手を胸に当ててお辞儀をするとそのまま書斎を出ていった。
「メアリム様、トラムはどうしたんでしょうね?」
『あやつか。まあ、気が向いたら姿を現すじゃろう』
「気が向いたら……ねぇ」
別に心配してる訳じゃないが、この世界で俺の事を知っている唯一の人物……いや、猫だ。色々聞きたい事があった。
『旦那様、お客様の部屋の準備ができました』
しばらくして、ドアの向こうからクリフトさんの声がする。どうやら俺の寝る部屋を用意してくれたらしい。
「ありがとうございます。色々よくしてもらって……」
『まあ、夜に彷徨かれて、警邏の兵に捕まっても困るからな』
老人はそう言うと手を払う仕草をする。『いいから行け』って事らしい。
口は悪いが、何だかんだでこの人もイイ人だ。俺は軽く会釈をすると老人の書斎を後にした。
『狭い部屋ですから、ご不便をお掛けするかもしれません』
クリフトさんがそういって案内してくれた部屋は、俺が住んでいたアパートの居間ほどの広さだった。1LDKの安アパート暮らしにとっては十分な広さだ。これが『狭い』なんて贅沢だぞ?
「……失礼します」
部屋に入ってぐるりと見渡す。窓から差し込む月の明かりに照らされるのは、白いベッドと小さな机。それだけの簡素な部屋だ……客間というより、誰かの個室だったのだろうか。
ベッドもきれいに整えてあって、普通にマットレスがある。ファンタジーの舞台としてよく描かれる『中世ヨーロッパ』の寝具は藁にシーツを被せただけのもの、もしくは藁の上に直接寝るもの……そういう話をネットで見たことがあったから、これはありがたい。
「結構いい部屋ですね」
『……?』
クリフトさんは困ったような表情で俺を見る……そうか。言葉が通じないんだった。
俺は取り敢えず笑顔で頭を下げる。
『……では、私はこれで失礼いたします』
クリフトさんはそういってドアを閉めると、そのまま行ってしまった。葉が通じなければ『会話』ができない。
当然のことだけど、言葉が通じないのは不安だし寂しいものだと改めて思う。
しかし……疲れたな。色々なことがいっぺんに起こったせいで、身も心もクタクタだ。
俺はベッドに身を投げ出すように横たわる。
……そういえば、服はシャツにスラックス、靴下のまま。全身埃っぽいし足の裏は泥だらけ。こんな格好で寝たらクリフトさんに怒られちまう。
そんなことを考え……瞼が重くなっていく……
……。
……。
俺は濃い霧の中、一人佇んでいた。
……ここは?
ぼんやりと周囲を見渡す。自分の姿以外全くなにも見えない、白に塗りつぶされた世界。
夢?
「カズマ」
不意に名を呼ばれ、俺は背後を振り向いた。そこに居たのは一人の少年。
黒づくめの服、濡れたような黒い髪、白い肌、金と緑の異色瞳。
……俺はこの少年を知っている。
「自分の生きる理由は見つかったかい?」
そう。あいつだ。
「トラム……」
「覚えてたんだ……やっぱりすごいな、君は」
トラムは少し驚いたように目を丸くする。俺は少年の目線に合わせるように屈むと、その目を見据えて問いかけた。
「俺の世界とこの世界で俺の前に現れた黒猫、あれはお前だろ。トラム……お前、何者だ?」
「僕は僕さ。それ以外の何者でもないよ」
「答えになってねぇぞ」
ジト目で睨む俺。トラムは微笑みを浮かべて肩を竦めた。
「『当たるも八卦、当たらぬも八卦』って言うけど……本当に人生ひっくり返っちゃったね」
その台詞、確か……
「あの占い師……いや、でもあれは老人だったぞ?」
「……人を外見で判断するのは大人の悪いところだよ」
悪戯っぽく笑うトラム。ってことは、あの黒猫といい、占い師の爺さんといい、このガキの仕業だったってことか……だとしたら、俺の召喚にトラムが関わっているのか?
「俺をこの世界に召喚したの……お前じゃねえだろうな」
俺の言葉に、トラムは頭を振った。
「違うよ。君を召喚したのはこの世界の魔法使い。『神の力』を手に入れる為にね」
……メアリム老人も言っていたな。『異世界人には神の力が宿る』、だったか。
「そんなもの、本当にあるのか?」
「『在る』とも言えるし、『無い』とも言える……まあ、いずれわかるよ」
なんだよそれ。有るのか無いのかハッキリしろっての……『いずれわかる』って、含んだ物言いしやがって。
「カズマ、約束は覚えてるかい?」
「『生きる理由の為に全力を尽くす。その結果を受け入れる』だったな。でも、この世界に俺の生きる理由なんてあるか?」
俺はこの世界では異分子だ。この世界で生きることを許されるのだろうか。
「世界は、そこで生きようとする意思のある者を受け入れる。生きる理由もあるさ。でも、ただ悶々として待っているだけじゃ、絶対に見つからない。自らの意思で求めなきゃ」
……そうだ。生きることを許されるか、じゃない。生きるんだ、この世界で。
帰る方法を探すにしても、生きていかなきゃならない。
「カズマ、僕はいつも君の側にいる。君が生きる理由を探す限り。そういう契約だからね」
霧がさらに濃くなってきた。トラムの姿が霧に呑まれておぼろげになっていく。
「君なら……選択の果てに……に辿り着ける。その時……」
少年の言葉が霧に溶けるように消える。
『……マ……ズマ……カズマ』
誰かが呼ぶ声。何処からだ?
やがて俺の視界も霧に塗り潰されていった。