1ー2:Warum ist Sie dort hier?
部屋に入った俺は思わず息を飲んだ。高い天井に、蝋燭の明かりが煌めく豪奢なシャンデリア。広い室内に置かれたソファーは素人目に見ても高価なものだとわかる。
上流階級の応接室と言われてイメージするそのままの光景。
応接室には三人の人物がいた。
奥のソファーに座った、立派な口髭の男。その後ろに控える片眼鏡の男。そして、俺に背を向けて座っている白髪の老人。
『その男で間違いないかな? メアリム殿』
奥のソファーに座った口髭の男が俺に目線を向け、メアリムと呼ばれた老人に問うた。態度や雰囲気から、この人物がここの主らしい。
老人は、ソファーから立ち上がると俺の方を振り向き、俺を頭の先から爪先まで舐めるように見る。
『ふむ。……確かにこの男です。間違いありません』
何が間違いないんだよ、爺さん。
しかし……全身を覆う程長い黒のローブ、肩にかかるくらいに伸びた髪。胸まで伸びた顎髭も真っ白 ……この顔、どこかで?
……
……
……あ。
「あっ! あーっ!! あんたっ!」
俺は思わず、老人を指差して叫んだ。夕方、面接帰りの商店街で占いをした、あのジジイ!
「何であんたが……」
『……この愚か者がっ!! 恥を知れ!』
占いジジイーーメアリム老人は俺の言葉を遮るように一喝すると、いきなり手にした杖で俺の頭を殴り付けた。
何しやがるっ! 痛ぇじゃねえかっ!
『その目はなんじゃっ!』
叫ぼうとした俺の膝を強かに打ち据えた。たまらず膝をつく俺の肩を杖で押さえつけ、老人は低く囁く。
『……この場はワシがうまく治める。お前は黙ってワシに従っておれ』
「……え? 」
聞き返そうとすると、また頭を杖で殴られた。うまく治めるって……助けるつもりなら本気で殴らないでほしい。助かる前に死んじまう。
『この馬鹿弟子がっ! 未熟者の癖に転移魔法なぞに手を出しおって……それに飽き足らずご婦人の湯殿に落ちるとは何事かっ! 恥晒しめがっ!』
って、杖で腹を突かないでくれっ! 冗談抜きで痛いから……!
反射的に体を庇うが、杖で脇腹を突かれて激しくむせる。
『メアリム殿、まあそれ位になされよ』
口髭の男が苦笑して老人を止めた。
『その男、娘の湯殿に入り込んだのは確かに許されぬ事だが……魔法の失敗が原因で本人の意思でないのなら、大目に見ようではないか』
『はっ……閣下の御慈悲、このメアリム深く感謝いたします』
老人は髭の閣下に深々と頭を下げながら、杖の先で俺を小突く。
『馬鹿者。ひれ伏して詫びぬか』
ひれ伏せ……土下座して詫びろって? まあ、娘の風呂を覗かれたら、父親として許せないわな。
それに、多分爺さんの言う通りにしないと……死ぬ。
俺は生まれて初めて本気の土下座で謝った。言葉が通じないなら態度で示す。生きるためなら恥や外聞は二の次でいい。
俺の渾身の土下座が伝わったのか、髭の閣下は鷹揚に頷くと部屋の奥の扉に歩きだした。片眼鏡の男が音もなく先回りし、扉を開ける。
『メアリム殿……儂は貴殿と今後もよい付き合いをしたい』
『はっ……』
そう笑った髭の閣下の顔はゾッとする程凄みが効いていた……ありゃ、真っ当な人間じゃねぇな。
『いつまでへばりついておる……終わったぞ』
土下座したままの俺を、メアリム老人は呆れたように杖で小突く。
『足の……指が痛くて……立てねぇ』
ここに来てから、壺で頭殴られたり、足の指に穴を開けられたり、杖でしこたま殴られたりで体がボロボロだ。
『情けないやつじゃ……どれ? おお、また派手に穴を開けられたの』
老人は面倒臭そうに杖で俺を引っくり返すと、爪先に巻かれた布を乱暴に剥がした。
「爺さん、俺の言葉……わかるのか? 」
『黙っとれ……まあ、これくらいなら大丈夫じゃろ。今回だけじゃぞ?』
老人はそう言うと、何事か呟きながら手を擦り、両手で俺の足の指を包んだ。
……暖かい。
体が冷えたとき足湯に浸かったような心地よさに、思わず変な声が出た。
『阿呆、気持ち悪い声を出すでない!』
もう片方の足に両手を当てながら、老人は吐き捨てるように言った。
『終わったぞ……全く、煩わせおって』
言われて足を見る。足の指の傷が、綺麗に消えていた。痛みもない。
なんじゃこりゃあ……!!
「爺さん、あんた何を……」
俺が顔を上げたときには、既に老人は部屋を出ていた。
『長居は無用じゃ……さっさと来い。馬鹿者』
聞きたいことも言いたいことも山程有る。だが今は、老人についていくしかなさそうだ。
何がどうなっているのか。ここは何処なのか。それを知る手掛かりをあの爺さんが持っているはず。
……そうでないと困る。
『全く、お前のせいで侯爵に余計な借りを作ってしもうたわい』
メアリム老人は開口一番ぼやく。勿論、周囲に俺以外の耳がないと確認した上で、だ。
俺は今、メアリム老人と屋敷の中庭の廊下を歩いている。彫刻の施された柱とアーチに囲まれた中庭。中央には噴水があり、水が満月の明かりに煌めいている。
中庭から見える何基もの尖塔、鋭角にそびえる屋根、沢山の窓……
大阪にある、某映画会社が作ったテーマパークが作った魔法学校のセットみたいだ。
館というより城だな、これは……本当、ここは何処なんだろうか。
「あの……」
『なんじゃ?』
先を歩く老人の背中に遠慮がちに声をかける。老人はめんどくさそうに首だけ振り向いた。
……会話ができる。
メアリム老人のぞんざいな態度にムカつくより、話せる喜びの方が大きい。言葉のキャッチボールって、素晴らしいな!
「助けてくれてありがとうございました……一時はどうなるかと」
『礼ならワシよりも奴に言うがよい』
「奴? 」
俺は老人が杖で指した先を見た。廊下の隅の柱の影。
だが、そこには誰もいない。
……と、柱の影から何かがこちらに歩いてきた。
それは、夜の闇よりも濃い黒の毛並みを持った猫。右目が金、左目が鮮やかな緑色の異色瞳。
あの猫、どこかで見た気がする。
黒猫は俺の足元にやって来ると、俺を見上げてひと鳴きし、目を細めて伸びをした。
『こやつが、お主がここに現れるから早く迎えに行ってくれ……と五月蝿くてな』
この猫が……俺を? 何を言って……
『メアリム老のお陰て無事彼と接触できました。感謝しますよ……流石は帝国一の大魔法使い』
『ふん。おだてても何も出らぬよ。夢の君。今回の件、貸しにしておいてやる』
『覚えておきましょう』
……俺の耳がおかしいんだろうか。猫が喋っているように聞こえる。
しかも、爺さんと普通に掛け合いしてやがる。
「また会えたね。カズマ……ん? どうしたんだい? 口を魚みたいにさせて」
黒猫が俺を見上げて言った。いや、だって……
「猫が喋って……!!えぇぇ?!」
俺は夜だというのに素っ頓狂な声を上げてしまった。
猫が……喋っている! 爺さんの腹話術か?
「駄目だよ……夜にそんな声をあげちゃ。騒ぎになる」
「しかも、日本語!?」
それに、俺の名前を呼んだ?! 何が何だかわからんぞ? 人間とは言葉が通じなくて、訳のわからん言葉喋って、猫と話ができて、しかも日本語喋って?
「爺さんどうなってやがる! なんなんだよ、一体!」
『メアリム様と呼ばんか! 馬鹿者』
メアリム老人が俺の頭を杖で殴って一喝する。
……痛ぇ。俺は頭を抱えて踞った。爺さん、手加減って知ってますか?
『全く、近頃の若い者は言葉の使い方を知らん』
『老、そう言わないで。猫が突然喋ったからびっくりしたんだよ。彼の世界でも猫は普通喋らないからね』
……『彼の世界』?
いま、黒猫はなんと言った?
「……大変だったみたいだね、君も」
猫に哀れみの目で見られている。
ああ、大変だったよ。とても。
……思い出した。行き前や商店街で見たあの黒猫だ。あの時の黒猫が何故こんなところに居るんだ?
『……彼は安心院 一馬。変わった名前でしょ?』
『アジム……? 確かに見かけによらず変わった名前じゃな』
「……よく言われます」
からかうように言うメアリム老人に俺は肩を竦める。
大学時代は、サッカーの日本代表監督に名前が似ているとからかわれたし、社会に出てからも名刺交換して第一声に『何とお読みするのですか? 』とよく聞かれた。
一目見て名前が読める人は、まずいなかった気がする。そのせいで取引先でもすぐに名前を覚えて貰えた。
……って、んなことはいい。
「色々疑問があるのはわかるけど、取り敢えずここを出よう……ここは誰の耳があるかわからないからね」
黒猫はそう言うと俺に背を向けた。
『メアリム老、あとはよろしく頼みます』
そう言うと、黒猫は音もなく駆け出し、元来た柱の陰に身を踊らせ、たちまちその姿は闇に溶けて消えた。
メアリム老人は、黒猫が消えた陰に舌打ちをする。
『あやつめ。ワシに押し付けて行きおった』
「ははは……」
……結局なんなんだ? あの猫は。
猫が喋るってだけでも信じられないのに、俺の名前を知っていて。滅茶苦茶も甚だしい。
「爺さ……メアリム様、あの猫は……」
『あれはな、猫ではない』
いや、どう見ても猫でしょ? あれ
『アレはトラムという奴がよく使う使役魔じゃ。流石にワシ等の世界でもただの猫は喋らんよ』
へぇ……使役魔。式神とか、そういう類いかな? じゃあ、喋れてもおかしくないか。
……って、なんだそりゃ?
ライトノベルやゲームの世界かよ、ここは。それとも今流行りの異世界ファンタジーか? じゃあ、俺はトラックに轢かれて死んだ哀れなニートか?
「俺は夢を見ているんだよな? とびきり悪い奴を。そうとしか思えない。だって、こんなふざけたこと……」
頭を抱えてしゃがみこむ俺……そうだ。やっぱり夢だ。
あの大地震も、もしかしたら内定の通知も……内定の通知? そうだ、早く目覚めて色々と準備しなきゃ。
……そんな俺の尻を、メアリム老人が杖で叩いた。爺さん、ケツが割れるから思いきり叩くのやめてくれ。
『馬鹿者。夢などではない! しっかりちゃっかり現実じゃ! 異世界人だからと言って、いつまでも甘えていられると思うな?』
「異世界……?」
ご老人、その冗談笑えない。
が、メアリム老人は真面目な表情で俺を睨んでいる。
「異世界……異世界人? 俺が? ええぇぇっ!? 」
愕然、というのはこんな感じだろうか。体が固まって、頭が真っ白になる。
……どうやらトラックに轢かれる類いの異世界ファンタジーの方だったようです。
って、なんだよ、それ。
確かに色々と常識外れな事があったけど……だからって『貴方は異世界に飛ばされました』ってのを簡単に信じるほど厨二を拗らせた覚えはないな。
『馬鹿者! 騒ぐでない! 誰ぞ他の者に聞かれたらどうする。ほれ、さっさと立たぬか』
そう言ってさっさと歩き出すメアリム老人。人を気遣うとか、そんなの全くないんだな!
ってか、俺ってどうなるわけ?