3ー13: Solch ein gewaltsames Ding wird nicht erlaubt!
※この話のうち、主人公が関知しない部分の描写は三人称で書いています。
ーー時間は少し遡る。
少女は小走りで宴会場を走っていた。
亜麻色の髪、大きく澄んだ青い瞳、整った鼻梁、わずかに上気した絹のような頬。身に纏った飾り気のない質素な服とは不釣り合いな気品を、少女は漂わせている。
少女の耳にはブリューベルの薔薇と呼ばれる侯爵家の紋章をあしらったイヤリングが光っていた。
少女の名をエリザベート=フォン=ブリューベルという。
劇団の座長の娘、ビアンカ=ヤンセンと服を取り換えた彼女は、自分のテントを裏から抜け出したあと、広場を迂回して正面から自分のテントに帰ろうとしていた。
(何人もすれ違っているのに、誰も気付かない……これなら絶対カズマもきっと私を彼女だと思うはず!)
自分の護衛騎士ーーカズマの驚き慌てる顔を想像して、エリザベートは一人悪戯っぽく微笑んだ。
ビアンカの振りをし、人々の中から何事もなかったようにカズマに近付いて、テントの中で待ってるビアンカと二人で正体を明かして驚かせる……そんな悪戯をカズマに仕掛けるつもりだ。
カズマに退屈な思いをさせてしまった。だから、ちょっとビックリさせて退屈を紛らわせてあげよう……エリザベートはそう思ったのだ。
(……もしかしたら彼は怒るかもしれない。そうしたら、素直に謝ろう。彼ならきっと、『しょうがないですね』なんて笑って許してくれる。でも、ビアンカには我が儘を言ってしまったな……)
明日お茶に誘って、美味しい焼き菓子をご馳走しよう。そんな事を考えながら、カズマの前に出ようと出店の角を曲がろうとしたとき、何者かがエリザベートの腕を掴んだ。
「え……?!」
振り向いたエリザベートは顔を強ばらせた。
背がひょろ長く、痩せて筋ばった顔をした男だ。切れ長の目は鈍く無機質な光を宿している。その彼が、半分くらいに剃り落とした眉を不機嫌そうに歪めて彼女を睨んでいた。
だが、エリザベートはこの男に全く見覚えがない。
(誰? この男)
「よう、ビアンカ。なんで俺を無視するんだ? さっきから何度も呼んでるのによ」
「ご、ごめんなさい……気付かなくて」
エリザベートは謝りながら男の手を解こうとした。だが、男の手の力は思ったより強い。
「ったく……座長の娘だからって……まあいい。ビアンカ、フィッツが大事な話があるってよ」
「ティルが話? 私は……」
私はビアンカじゃないわーーそう言い掛けて、エリザベートは口をつぐんだ。自分がビアンカではなく侯爵の娘だと知れたら、騒ぎになるかも知れない。
無用な騒ぎは起こしたくない。そう思ったのだが、男はエリザベートの思いなど知る由もない。
「何でも急いで伝えたい話らしい……中身は俺も知らねぇ。ほら、早く行ってやりな」
男の言葉に、エリザベートは眉を顰めた。男が指差す先は、広場の外れ。松明の灯りが届かない暗がりだったからだ。
「……何故、それを貴方が? 本当に大事な話があるならティル=フィッツが自分で伝えるでしょう?」
(ーーティル=フィッツはビアンカに何を話そうと言うの? それに、なんでこんな男が……)
エリザベートは男の指す先を一瞥すると、不審感を顕にして男を睨んだ。腕を掴む力はまだ抜けない……いい加減痛い。
「おいおい、なに疑ってんだ? 俺はお前とフィッツを応援してるって言ったろ? ……確かにこんな面だから疑わしいかもしれんが、お前達に幸せになって欲しいって思いは本気だぜ?」
男はエリザベートの耳元に顔を寄せ、囁くように言う。
(穢らわしい……っ!)
その、言葉とは裏腹のねっとりとした物言いに、エリザベートの背筋に悪寒が走った。
思わず顔を顰め、男から顔を背けるーーこの男からはハンスの髪油と同じ臭いがする。
「それによ……お前達の事は余り大っぴらにはできないだろ? フィッツの野郎とお前が二人でいると目立つ。だから俺が仲立ちしてやってんじゃねぇか」
男が恩着せがましくエリザベートに迫る。だが、エリザベートはビアンカではないし、ティル=フィッツに用はない。
それなのに、なんでこんな男に付き合わなければならないのか……エリザベートはもう我慢できなかった。
「私はビアンカではありません。貴方の人違いです……ティル=フィッツの事は私から彼女に伝えます……だから、その手を離しなさい。人を呼びます!」
エリザベートは自分の腕を握ったまま離さない男の手を掴み返して睨み付ける。だが、男は苛立たしげに舌打ちすると低い声で言った。
「なに貴族様みたいな口利いてやがる。私はビアンカじゃない? じゃあ誰だ? あの瓜二つのエリザベートってお姫様だとでも? 姫さんがそんな服着てテントの裏をほっつき歩いてる訳無いだろうが。冗談も大概にしろ」
ーー考えてみれば、エリザベートとビアンカが服を取り替え、髪形を変えて入れ替わっているとは普通思わない。
(もう……こうなったら、騒ぎ覚悟で人を……カズマを呼ぼう。カズマなら、きっと私だと分かってくれる)
先程まで『きっと気付かない』と思っていたのに。都合がいいなーーとそんな考えが頭を過るが今はそれどころではない。
エリザベートが声を出そうとした、その時。夜空に笛の音に似た鋭い音が舞い上がる。
少し間を置いて、空に爆音と共に茜色の花が咲いた。あちこちで歓声が上がる。
「ちっ……花火が始まりやがった。時間がねぇ。ビアンカ、悪いが来てもらうぜ」
「え? なっ! ……むぅ!」
男は舌打ちをすると、エリザベートを強引に引き寄せ、手で鼻と口を塞ぐと引き摺るように暗がりに連れ込んだ。エリザベートは必死に抵抗するが、男の力で押さえ込まれて振りほどくことができない。
エリザベートが引きずり込まれた雑木の裏側は、ちょっとした空地になっていた。夏草が膝の高さまで鬱蒼と生い茂っている。
「旦那! ビアンカをつれてきたぜ」
息を荒くした男が小声で言うと、夏草の中から大きな人影が3つ、音もなく立ち上がった。
花火の明かりに照らされた男達の顔は、どれも醜悪で見るからに悪人面だ。
「んん……っ!」
エリザベートが顔を強張らせて叫ぶが、口を塞がれているため唸り声にしかならない。
「遅いぞ……! 何をやっていた?」
「すまねぇ、旦那……この女がごねやがって」
「……!! んぐっ!」
三人の真ん中、額から眉間に向こう傷のある髭面の男の叱責に男の手が緩む。エリザベートはその隙を見逃さず、男の中指に思いきり噛み付いた。
「うがぅっ!! な、何しやがるっ!」
男は悲鳴をあげてエリザベートを突き飛ばした。解放されたエリザベートは口に入った男の血を吐き出すと髭面の賊を睨む。
「貴方達は何者です! このような狼藉が許されると思っているのですか!」
「ふん。勇ましいな。時間がない……さっさと連れていくぞ。おい、この女を黙らせろ」
髭面の賊は、エリザベートの叫びを一笑し、両脇に控えていた手下に顎で指示する。部下二人は下品な笑みを浮かべながらエリザベートに近付いた……その時。
「待てっ! お前達何してる!」
男が一人、空き地に飛び込んで鋭く叫んだ。その蜜色の美丈夫は、エリザベートを庇うように男達の前に立ち塞がると彼女に笑いかける。
「ビアンカ、大丈夫?」
「……ティル=フィッツ? 何故……」
「……君がブルーノに無理矢理連れて行かれるのを見掛けて」
ディルの颯爽した姿に、男ーーブルーノは噛まれた指を押さえながら憎々しげに舌打ちした。
「ちっ……英雄気取りは舞台の上だけにしやがれってんだ。フィッツ!」
ティルは自分達を取り囲む賊を睨み付け、ブルーノに鋭く問う。
「ブルーノ、これはどういうことだ?!」
「どうって……ふん。これはあんたの企みだぜ? 俺はその通りやってるだけだ」
そう言ってティルを嘲笑うブルーノ。ティルは動揺して叫ぶ。
「馬鹿な……! あの計画は取り止めだと昨日お前に……それに、こんな連中が居るなんて聞いてないっ!」
「お前には言ってないからな。計画はもうずいぶん前から走り出してるんだ。今更お前の都合で止められんし、止めるつもりもない」
ブルーノの言葉に、ティルは何かに気づいたように息を飲み、拳を震わせ彼を睨み付ける。
「貴様……謀ったな! ブルーノ?!」
「へっ……お前はまあいい友達だったが、目立ちすぎたんだよ」
ゆっくり頭を振って哀れむように言い放つブルーノ。フィッツは口惜しげに舌打ちをすると、ブルーノを睨み付けたまま叫んだ。
「……ビアンカ、早く逃げ…… がぁっ?!」
だが、彼の叫びは彼の後頭部を殴り付ける棍棒の鈍い音に呑まれる。
頭から草むらに倒れ込み、痙攣するティル。髭面の賊はそんな彼を見下ろし鼻で笑う。そして冷たい目でブルーノを睨んだ。
「……喋りすぎだ。今度調子に乗ったら……殺すぞ」
「……すいません」
賊に気圧されたブルーノは、顔を青くして縮こまる。
「ティル=フィッツ! しっかりなさい! ティル!」
エリザベートは倒れたまま動かないティルの肩を揺すって叫ぶ。
(一体何でこうなったの? 何が起こってるの? ……カズマ……助けて)
エリザベートは混乱していた。ブルーノという男は、これがティルの計画だと言う。しかしティルは計画は昨日中止した筈で、そもそもあのような賊が絡むなど聞いていないという。
何が本当なのか……ただハッキリしているのは、自分がビアンカと間違われていて、この男達に連れ去られようとしていること。逃げなければきっと酷いーー自分が想像もできないようなーー目に遭うこと。
……そして、多分もう逃げられないこと。
ひときは大きな音が夜空に舞い上がった。少し間を置いて、色とりどりの巨大な花火が爆音と共に夜空を覆う。
ティルを殴った男が乱暴にエリザベートの腕を捻り上げ、無理矢理立たせた。
「いやっ……!」
痛みと恐怖にエリザベートが上げた悲鳴を押し込むように、布が彼女の口と鼻を塞いだ。
布から発する甘い匂い。不意の事に息を止めることができず、エリザベートはそれを思いきり吸い込んでしまう。
途端に目の前が揺らぎ、全身から力が抜けていく……その感覚に、エリザベートは言い様のない恐怖を覚えた。
(……助けてっ! カズマっ! カズ……)
脳裏に思い描いた護衛の騎士に必死に手を伸ばし……彼女の意識は闇に沈んだ。
※ ※ ※ ※ ※
……くそっ! 何が……どうしてこうなったんだ!
俺は手にした脅迫状を握り締めた。怒りが、焦りが行き場を求めて頭を渦巻いている。呼吸が荒くなり、胸が苦しい。
現場に残った気配から、エリザベートが拉致されてからそう時間は経っていない筈だ。早く助けなきゃ……でも、どうやれば彼女を救える?
ーー落ち着け……こんなときパニックになったら終わりだ。何もできなくなる。
俺は顔を上げ、周りを見渡した。
顔を青くして、胸に手をあて不安そうにしているシャルロット。苛立ちを隠さず動き回るダニロ。ブルーノとかいう男は、俯いたまま右手の中指を擦っている。他の面々も、俺達を遠巻きに囲んで何があったのかヒソヒソ話すだけ。
このままじゃ悪戯に時間を食うだけだ。どうする? どうすれば……
俺は胸ポケットに仕舞ったエリザベートのイヤリングを押さえ、大きく深呼吸した。
ーーよし。先ずは……
「シャルロット」
「え? な、なに?」
俺の呼び掛けに、シャルロットはビクリと肩を震わせる。
「テントに戻ってお嬢様の側に付いてやってくれ。さっきの騒ぎで不安になっていらっしゃるだろうから」
「でも……いえ。そうね……わかったわ」
シャルロットは何か言いかけ……直ぐに俺の言いたいことを理解したのか、厳しい表情で頷いた。
「それと……テントにいるステラに、俺のところに来るように言ってくれ。頼みたいことがある」
シャルロットは無言で頷くと、踵を返してエリザベートのテントに走る。
ーー待っていてくれ。必ず助けるから……エリザベート。