0ー2:Wenn eine schwarze Katze Unglück verursacht, ist es wahr?
不意に鳴り響く甲高い電子音。俺は薄目を開けて、枕元で震えるスマホのディスプレイを見た。
……朝6時か。
アラームを切ってスマホを放ると、名残惜しげに薄暗い天井を見つめる。深夜バイトの疲れが残っているのか、体がだる重い。
このまま二度寝の誘惑に引きずり込まれそうになるのを寸前で踏みとどまった。今日は大事な日なんだ。こんなところで甘い誘惑になんか負けてられん。
ベッドから降りると、遮光カーテンを開ける……畜生。朝日が目に痛いぜ。
洗面所で顔を洗って目を覚まさせ、一張羅のリクルートスーツに着替えた俺は、鏡の前でネクタイを直しながら身だしなみのチェックを入念にする。
鏡の前に居るのは、短めに切り揃えられた黒髪の、平均的な日本人顔の男。不細工では無いが、特別に顔が良いと言うわけでもない。自分で言うのもなんだが地味な顔だと思う。
女性からは『優しそう』とか『いい人そう』と良く言われるけど、友人からは『人の良さそうな面構え』と言われる……まあ、初対面から身構えられるような強面じゃないだけましってことだ。
俺も今年で30歳。未だに無職で独身……当然彼女なし。
以前はある小さな商社に勤めていた。だが、その会社は不況の煽りをうけて2年前に倒産。
上京したてで知り合いもいない俺は、コンビニやファミレスでアルバイトをしながら再就職先を探すものの、思うようにいかず。焦るうちに崖っぷちの30歳があと2ヶ月まで迫っていた。
……30歳越したら就職は絶望的だからな。なんとしても今年で決めなきゃ。
通勤ラッシュが始まる前、比較的空いた電車で朝食代わりのヨーグルトを飲みながら、俺はスマホの予定表を確認した。
今日は午前中に1社、午後に2社の面接を受ける。移動時間を考えると結構タイトなスケジュールだ。試験の時間によっちゃ昼飯の時間、取れないかもしれんな、こりゃ。
そんなことを考えていると、電車が減速を始めた。
やがてゆっくり電車のドアが開く。電車に雪崩れ込むサラリーマンを掻き分けて、俺は何とか駅に降りた。最初の会社まで歩いて30分。時間は余裕だけど、早いに越したことはない。
改札を小走りに抜けて、駅前の雑踏に飛び込む。
……と。
視界の隅を何かが過った。無意識に目で追った先に居たのは、一匹の猫。
駅前のバス停のベンチに座っていたそいつと、目が合った。右目が金色、左目が緑色の、真っ黒な猫だ。俺は……何故か俺はそいつから目が離せなくなった。
ーー静寂。
都会の喧騒も、車の音も消え、世界は俺と黒猫だけになった。
(……やあ、また会ったね。カズマ)
……え?
不意に肩に衝撃を受け、俺はハッと我に帰った。朝の雑踏のなかぼうっと突っ立っていたから、誰かにぶつかったのだ。迷惑そうにしかめ面をした中年のサラリーマンにあわてて謝り、俺はさっきのベンチを見た。
もう猫はどっかに行ったのか、ベンチにはバスを待つ女子高生のグループが座っていた。
なんなんだ? さっきのは……何か聞こえたような気がしたが。多分空耳だろう。俺は頭を振って道を急いだ。
……それにしても。今から面接だってのに黒猫を見るなんてな。目の前を黒猫が横切ると不幸になるんだったか? それとも幸運が訪れるんだったか?
……まあ、どっちでもいいや。いい方に考えよう。
全ての予定を終えたのは、空が夕焼けを通り越して紫に染まりかけた頃だった。帰宅ラッシュの人並みを掻き分けるように電車に乗り込んだ俺は、入り口近くの長椅子に身を投げるように座り込む。
いやぁ、電車が空いてて助かった。この時間、少しでも間が悪いと家路のサラリーマンと学生にぶつかって鮨詰めだからな。
しかし、どうにか今日の面接を全部こなしたよ。それにしても……疲れた。
赤紫色に沈む車窓の風景をぼんやり眺めながら、俺は溜め息をついた。達成感より疲労の方が強い。
その日初めて会う面接官に『志望動機』やら『自分のアピールポイント』やら自己主張を語るのは何回やっても慣れない。
それに、今日最後の会社の面接官。『今後のキャリアプランを聞かせてください』なんて聞いてきやがって……考えてなかったから答えに詰まったら、『ありがとうございました』ってさっさと面接を切り上げやがった。
……くそっ! ムカムカする。
会社は、自分の将来のイメージがちゃんと出来る人間が欲しいって事なんだろう。その日の暮らしで一生懸命なのに、『将来のキャリアプラン』もなにもあったもんじゃない。
……でも。
将来なりたい自分の姿、か……確かに今まで考えたこともなかったな……俺、何がしたくて生きてるんだろ?
いや、ダメだ。こんなんじゃ。帰ったらコンビニのバイトだ。感傷に浸っている暇なんてないし、気持ち切り替えていかないと心身が持たない。
駅から自宅のアパートまで歩いて20分。着替えに帰ってもバイトの時間まで少し余裕がある。結局昼飯を食う暇がなかったから、近くのスーパーか総菜屋で弁当買って帰ろう。
「ちょっと、そこの兄さん」
家路につくサラリーマンや部活帰りの学生、買い物帰りの主婦……夕方の駅前商店街は色んな人間が行き来している。俺は行きつけの総菜屋で唐揚げ弁当を買い、雑踏を避けるように家路を急いでいた。
「兄さん、待ちなさい」
俺の名前を呼ばれたわけでもないのに、急に足が止まる。視界の隅を何かが過った。無意識に目で追った先に、見覚えのあるものがいた。濡れたように黒い毛並みを持った、金と緑の瞳を持った猫。
またあいつか。
違う猫かと思ったが、金と緑の異色瞳なんてそう何匹もいないだろう。黒猫の側で一人の老人がオープンカフェの椅子に座ってこちらを見ていた。
春先なのに冬物の黒いコートを着ている。肩にかかるくらいに伸びた髪も、伸びた顎髭も真っ白。かなり目立つ格好なのだが、何故か誰も気に止めない。
「そう。あんたじゃ」
と、老人が手招きをした。まっすぐ俺を見ている……こっちに来いって事だよな。なんかやだな。
しかし、無視できる状況じゃない。俺は思いきって老人の所に歩いて行き、警戒しながら話しかける。
「何か、用ですか?」
「ふむ……お主、道に迷っておるじゃろ」
……は? いきなり何を言ってんだ? この爺さん。さては新興宗教の勧誘か、新手の詐欺か。
俺が嫌そうな顔をすると、怪しい爺さんはひらひらと手を振って笑った。
「あいや、すまんな。ワシ、こう見えて占い師でな」
そう言うと、緑の人魚のマークがプリントされたマグカップをテーブルの脇にどけた。
占い師って……やっぱり営業じゃねえかっ!
「すいません。間に合ってます。じゃ、予定があるので」
丁寧に断りを入れて離れようとすると、老人が言った。
「今日面接を受けた会社な、3社とも不採用じゃ。残念じゃったのぉ」
思わず振り向く。そこには爺さんのドヤ顔があった。何言ってんだ? まだわからんだろ。そんなの。
「将来のキャリアプランに詰まったか。そんなもの、口から出任せ言ってもわからんだろうに。見かけによらず真面目ちゃんじゃな、お主は」
「五月蝿いな! 余計なお世話だよっ!」
思わず大きな声が出る。なんなんだこの爺さん……正直気味悪い。
「占いは信じない、か? しかし、たまには騙されたと思ってやってみるのもよいと思うがね?」
本当に占い師か? まあ、時間もあるし少しなら付き合ってもいいか。
……何故か、そんな気分になっていた。
「で? 俺の何を占うのさ? 恋愛? 就職?」
一応聞いてみる。
自称占い師の老人は意味ありげに笑うと、隣の椅子に置いてあった鞄からトランプの箱のようなものを取り出した。
「言ったじゃろ、お主は道に迷っておる、と。それを導いてやろうと言うのじゃ」
「俺は迷子になんかなってないぜ? 子供じゃあるまいし」
「ワシから見れば十分ガキじゃよ……ほれ」
そう言って老人は右手を俺に突き出した。
なんだ?
「ワシの占いはタダではないぞ」
さんざん煽っておいて金取るのかジジイっ!
「……幾らだ」
「本来は一回3,000円じゃが、初回特別サービスで1,500円にしてやる」
高いなおい。俺は舌打ちをするとジジイの手に1,500円を押し付けた。何だかんだで金を払う俺も律儀だな。
強欲占い師は金をコートのポケットに突っ込むと、慣れた手つきでカードを捌き始めた。
トランプではなく、綺麗なイラストが描かれたタロットカードだ。テーブルに並べらた22枚から、老人は何枚か抜き出してテーブルに並べて行く。
「タロットは知っておるかな?」
「いや……全然」
「現実主義も結構じゃが、オカルトや世界の神秘に興味を持つのも、視野を拡げる意味ではよいぞ?」
でもなぁ、オカルトって、食べていくのに必要なもんじゃないだろ?
老人は一列に並んだカードを順にめくった。
「ほっほぉ……過去は『悪魔』の正位地、現在は『月』の正位地、未来は『搭』の正位地か。お主、分かりやすいのぉ」
「なにが分かるんだ? これで」
憮然として聞く俺に、占い師はカードを指差しながら答えた。
「大雑把に言えばの、今は不安定で先が見えないが、そう遠くない未来に今までの人生全てがひっくり返るような変革が起こる、という意味じゃ」
……良いのか悪いのか、わからないじゃないか。老占い師は続けて右上に並べたカードをめくる。
「お主の問いへの答えは『世界』の正位地。自らの望む世界……個性を生かせる舞台の獲得といったところかの」
つまり、今は苦労するけど、将来は自分の夢を叶えるぞって事か? なんか、在り来たりだな。よくある説教の下りじゃないか。『今苦労すれば将来は明るい! だから頑張れっ!』って、ドラマで熱血教師が叫ぶやつ。
「まあ、確かに在り来たりじゃがな。しかし……いや、まあよい」
老占い師はタロットカードを片付けると、鞄から何か取り出した。
滴の形をした紫色の石がはまった小さなペンダント。
「何? 売り付けるのは無しだぜ」
「失礼じゃな。これはお主のためのものじゃ」
は? いきなり何を言うんだ?
だが、老人は俺の戸惑いを無視して、半ば強引にペンダントを握らせる。
「うむ。お主にぴったりじゃ。間違いない」
「いや……」
何がどうピッタリ何だか。
老人はそれ以上何も言わず、鞄を手に席を立った。
「ちょっ……爺さん!」
「まあ、『当たるも八卦、当たらぬも八卦』じゃよ、カズマ。占い師のワシが言うのもなんじゃがな……じゃ、頑張れよ。あでぃおす」
俺を無視して、身勝手な老占い師は商店街の雑踏に溶けて行く。
何だよ……気味悪いな。
ふと、スマホの時計を見た俺は、思わず声をあげた。バイトの時間まであと少ししかない。
着替えも、弁当もまだなのに……