20.醜いエゴ
「じゃ、ここでサヨウナラということで」
翌朝、王宮の敷地を一歩出たところ。リュックを背負った桃矢が、自転車に跨っていた。
身一つで来たのに、帰りはお土産やら記念品やら寄せ書きやらで荷物が増えていた。
「何もわざわざ自転車を使わなくとも……。車でお送りいたしましたのに」
ジェベルが申し訳なさそうに眉を下げる。
「いえ、あの、ガソリンを節約した方がいいと思って……。これ位しか協力できないし。それに、空港まで歩いてでもいける距離だし」
桃矢も申し訳なさそうに、ペコペコと頭を下げている。
これでお別れ……。
「色々と悪かったと思ってるよ……いや、思ってます、陛下。ゼクトールが平和になったら遊びに来てくれよな、……じゃなくて、来て下さいね」
エレカが手を振る。
お嬢様育ちのジムルが優雅に頭を下げる。アムルが、ノアが、サラが、目と鼻を真っ赤にしている。ミラは西の空を見上げていた。
王宮職員の女の子、宮廷料理人の老巨人。みんなが見送りに来てくれていた。桃矢に向かって口々に感謝の言葉を述べ、心から名残を惜しんでくれた。
みんなの端っこで、桃果が笑っていた。……夕べの星空のように明るい笑顔。
あの後、桃果はジェベル達にねじ込んだのだ。実際、ゼクトールの誰よりも敵艦隊装備に詳しかった。
ジェベルに対し、国防委員長のミウラが、桃果の居残りを強く押したのだ。
桃矢と桃果の視線が空中で、運命の糸のように絡み合った。
桃果の目が何かを言っていた。
具体的な言葉はわからない。でも、別れの言葉であることだけはわかった。
とても寂しい言葉だった。
いつもと違うのは、桃果から目をそらしたこと。
絡んだ糸は解れた。
潮時である。
「じゃ、キリがないからこの辺で」
もう一度、誰にともなく手を挙げて、別れの挨拶をする桃矢。
「ミウラ委員長、陛下を無事空港までお連れするのよ」
水っぽい目を隠すように、アンダーフレームをクイと上げるマープル。いつもより偉そうな言葉遣いだ。
「わかっている! わたしがお迎えに上がったのだ。わたしが最後までお見送りしないでどうするというのだ!」
ミウラが桃矢を促し、先に走り出す。
続いて走り出す桃矢。三回ペダルを漕いで振り向いた。
みんな、まだ手を振っていた。
桃果は……門柱にもたれるようにして立っていた。
桃矢が振り返ったので、姿勢を正した。いかにも元気があるように見える、月の笑顔。
桃矢は太陽を無くしてしまった。
――自分の道を走ろう。
そして、桃矢は前を向いて、空港への道を走り出したのだった。
空港へと続く白い道。朝の空は、どこまでも青く綺麗に澄んでいた。先導するミウラの形よいお尻。しかし、桃矢の心を動かすには力不足だった。
南国特有の白い家々が並ぶ街並み。
窓の造りが大きく、風通しがいいように全て開けはなっている。
朝の支度をしているのだろう。女の子達が忙しく動き回っているのがよく見える。
この子達はこれからどうなるのだろうか?
僕のように、この島から逃げ出すこともできない。そして仮にも王だった僕一人が、安全な場所へと逃げ出している。
その事をこの子達は知らないだろう。
それを知ったら、きっと僕のことを恨むだろうな。
でも僕だって知らずに連れてこられたんだ。どこまでも損な役回りだよな。どうせ僕はそんな……。
白い板塀の家から、少女が元気よく飛び出してきた。見通しがよかったおかげで、前もってブレーキをかける準備が出来ていた。
ミウラと桃矢は余裕を持って減速する。
漁に出るのだろうか? よく日に焼けた少女は、釣り具と水筒を持っていた。
彼女は桃矢を見て驚いたのか、目を丸くして棒立ちになっている。
「アイャウエィ! トーヤ陛下!」
少女が叫ぶ。
しまった、逃げ出すのがバレたか?
一番嫌なシーンが展開される予感に、桃矢は空を見上げた。
「トーヤ陛下、あガリとうございましタ! どウかお元気デ!」
日に焼けた少女は、たどたどしい日本語で声をかけペコリと頭を下げる。妙な違和感。
難なく少女を迂回し、走り去るミウラ。その平然とした態度に疑問を感じる桃矢。
「あの、ミウラさん!」
「なにか?」
顔だけ振り返るミウラ。特に緊張した様子もない。
「あの子、僕がゼクトールから離れることを知ってるみたいでしたが?」
「知ってますよ。この国中の者共は、トーヤ陛下の役割を全て理解しております」
振り返る桃矢。
少女の声に桃矢の通過を知ったのだろう。家々から女の子達が、バラバラと表に出てくるところだった。
口々に桃矢の名を出し、笑顔で手を振っていた。みんな底抜けに明るい顔をしていた。
みんな、サヨウナラと言っていた。
「トーヤ陛下の滞在日程も、陛下が無理やり連れてこられたことも、陛下が元々この国とは関係ない平和な生活を送られてきたことも、全ての国民が存じ上げております。ケティムとの面倒ごとも知っています。知った上でトーヤ陛下をお迎えし、トーヤ陛下をお見送りしているのです」
目を丸く見開く桃矢。
桃矢はスピードを上げ、ミウラに追いつき併走する。ミウラの顔をまじまじと見る桃矢。
「でも僕は、たった一人でこの国から逃げるんだよ! みんな僕のことを怒ってるんじゃないか?」
今度は、ミウラが大きく目を見開いた。
「何をおっしゃってるんですか! 詫びなければならないのは我々です。トーヤ陛下の方こそお怒りでしょうに!」
「なんで、怒んなきゃならないのさ?」
ミウラはしばらく口を開かなかった。前を見てゆっくりとペダルを漕いでいた。
「トーヤ陛下は、どこまでもお人好しでおられる」
ボソリと呟くミウラ。
さすがにムッと来た桃矢は、言い返してやろうと口を開く。
「だから桃果様はトーヤ陛下のことがお好きなのでしょう。……少し妬けてしまいます」
桃矢より早く口を開いていたミウラの一言が、彼を黙らせた。
無言で走っていく二人。
流れていく島の景色。
道の右側に、背の高い椰子の木で形成された森。左手に見える、珊瑚礁が作ったエメラルドの海。現実を感じさせない平和な風景。どこまでも白い道は続く。
やがて二つめの村に入った。
全国民が桃矢の行動日程を知っている。それは本当だった。
全ての家から人が出ている。
九割方が老若の女性。残りが年老いた男と年端もいかない男の子。
皆一様に手を振っている。皆一様に、明るく微笑んでいる。
「トーヤ陛下、ご苦労様でした」
日本語で書かれた横断幕まで上がっている。
さっきの村の女の子と一緒だ。口々に桃矢の名を叫び、感謝の言葉と詫びの言葉、そして桃矢の身の安全を願う言葉を唱えている。
年老いた者達は祈りの形に手を組み、涙まで流している者もいた。
桃矢の心中は複雑だった。気持ちの区分けができていないと言った方がよいだろう。
村の中を通る道を自転車で走る桃矢。窓から身を乗り出す老人、一緒になって走り出す子供。
みんな笑顔だ。みんな陽気な人たちだ。
自分たちの身に降りかかる不幸を知らない者はいないはず。
前方と両脇に人がいなくなった。村を抜けたのだ。
振り返ると、村の出口に集まった人々が手を振って別れを告げていた。
小さい島国だ。どこへ行くのも自転車で事足りるような国だ。村を抜けるとすぐに空港だった。フライトの時間に、余裕で間に合うだろう。
「参りましょう、陛下」
ミウラの言葉に桃矢の涙腺が切れた。
涙を見られぬよう彼女を抜き去り、全力で自転車を走らせた。
力の限りペダルを漕いだ。漕いでも漕いでも涙が溢れてくる。
ミウラが追いつけない速度を出す桃矢。おそらく二度とこの記録は破れないだろう。
そんなスピードで走るものだから、道の窪みに前輪を取られると挙動が激しい。
桃矢は縦回転しながら宙を飛んだ。頭が下で足が上。
太陽が目に入り、網膜を焼く。
太陽はそこで輝いている。しかし、それは桃矢の太陽ではない。
僕は、太陽に顔を向けられるだろうか? 再び太陽に巡り会う資格はあるのだろうか?
一回転したところで、桃矢から何かが抜けた。
何が抜けたところで物理法則は変わらない。白い珊瑚の砂を敷き詰めたゼクトールの大地が桃矢に近づいてくる。
桃矢は激しく地面に叩きつけられた。
膝を擦りむいたみたいだが、確かめもしない。転がった自転車を立てて跨り、ペダルをこぎ出す。
だが、自転車は動かない。
壊れていた。
直らない故障ではない。ただ単にチェーンが外れていただけだ。
こんなの何度も経験している。子供の頃はいざ知らず、今ではすぐに直せる。トラブルの内に入らない。
たっぷり潤滑油が染みこんだチェーンに指をかけ、スプロケットに沿わせてペダルを逆回転。確かな音を立て、チェーンが元の位置に戻る。
手が汚れたが、それがいかほどの物なのか?
シャツの裾ででも拭って落とせばいい。簡単だ。
問題は手とシャツを汚す勇気があるかどうかだけ。
一気に飛び乗る桃矢。後ろを振り向かず、前に向かって自転車を走らせる。全速力で。
「トーヤ様!」
背後でミウラが叫ぶ。
振り返る桃矢の目を見て、ミウラが黙り込んだ。
なぜなら、桃矢の目は、何かを捨てた目だったからだ。
捨てた事によって空いた手が、別の何かをつかんでしまった。そんな目だった
「僕はもう戻らない。だって、愛って、究極のエゴなんだからさ!」
桃矢は、自分の決めた道を振り向くことなく走った。
その彼の目に、涙は流れていないのだった。
次回「キングダム」