17.三つ目
「第二次世界大戦前まで、ゼクトールは国際世界と交流がなかったんでしょ? この海域は経済的にも地理的にも利用価値がなかったから、訪れる人も無かったんでしょ? 諸外国がゼクトールを知らなかったんだから、領土問題なんて発生するはずないでしょう?」
三回、四回とテーブルを叩きつける桃果。彼女の怒りはごもっとも。だがテーブルに罪はない。壊れてしまえば修理に国税が使われる。今の時期、それは避けたい。
桃矢は桃果の腕を押さえた。
「国連とか、公の場に出さなかったんですか? 誰が見ても無茶な話です」
理不尽。それは桃矢の一番嫌いな言葉。
「ケティムの方から国連総会に持ち出しやがった。なんでも、ケティムが持つ昔の文書に、ミョーイ島の所有権を当時の国王から譲ってもらったとする一文があったらしいぜ!」
後頭部で腕を組みながら足をテーブルにのせているエレカが、投げやりに話す。
口元に小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。もちろん、バカにする相手はケティム古文書だ。
「なっ! それなに? 国際社会でそんな子供だましが通じると思ってるわけ?」
桃矢に押さえられた腕でもがく桃果。確かに馬鹿な話だ。
「ところが、お偉い大国の方々は『それを否定する材料がない』として、反対しなかった」
自虐的な笑いに変わるエレカ。
「結局、採決が取られたんだが、石油と利権欲しさに目のくらんだ国の方が多かったって事だな。ほとんどの国が、ミョーイ島はケティムの固有領土だと認めやがった」
「なによそれ? ……わかった! 金ね? 金で買われたのね? 巨額な賄賂事件よ!」
桃果を押しとどめられなくなるのは時間の問題だな、と桃矢は思った。
ジェベルはゆっくりと首を縦に振り、続いてゆっくりと横に振った。
「政治的関係、政治の取引、大国間の利害関係、国連及び各国議会でのロビー活動。そういったいろんなカードを沢山持っているのがケティム共和国。対して、我らゼクトールは、国連より、小島嶼開発途上国に認定された小国。援助されることはあっても、こちらから差し出すカードなど一枚もございません。すでに――」
言葉を切るジェベル。ある種の感情を鋼の力で抑えている様に見える。
「すでに、ケティムは、我らに無断で油田の試掘を始めているのです!」
珍しく熱のこもったジェベルの説明に、力を込めて聞いている桃果。暴れる方向ではなく、内なる方向へ力を込めて。
「無理が通れば道理は引っ込むの? 正義はどうしたの?」
血が出るくらいにきつく拳を握りしめる桃果。桃矢は、ここまで感情を露わにできる桃果が羨ましかった。
桃矢の一歩先にある、ちょっとした自由。
無難な生き方と引き替えに捨てた自由を桃果が持っている。
なんだかんだいって桃果に付き合っている理由の一つがそれ。そんな自由の恩恵にあずかりたかったのだ。
「えてして、国際社会では、正義は力になりません。野蛮な力が正義になることの方が多いでしょう。愛するものがあるかぎり、人は他人に対してどこまでも冷酷に、そして我が儘になれるものなのです。かく言う我々もそう。生き延びるために他人様の血を流すことを厭いません」
ジェベルは元の宰相にもどっている。普段どうりの言葉で普段どおりで話した。
「ゼクトールは主立った航路から外れていますし、経済的に深く繋がる国もありません。グローバルな視点で見れば、どうでもいい島なのでしょう。しかし、そんな島でも我らの祖国。何物にも代えられない故里なのです」
故里。芦原家のある町で生まれ、育った桃矢にはピンと来ない言葉だった。
毎年、夏休みに母の実家へ遊びに行く。実家での母は、違った顔をする。故里とはそんなものだと思っている。でも、そこは母の故里であって桃矢の故里ではない。
「まもなく国連で、ケティムの軍事行動について是非が取り上げられます。もちろん、ケティムから出た議題です。おそらく、ケティムの軍事行動は正当化されるでしょう。それからです、ケティムが行動に出るのは。もう少し先の話です」
ゼクトール人は皆、楽天的な性格の持ち主だ。ジェベルは笑みさえ浮かべていた。
「ゼクトールに乗り入れているたった一つの航空会社は、明日を最後に乗り入れを見合わせる旨、申し入れてきました。もともと利益率の低い路線です。近い将来、ゼクトール周辺での軍事行動が予期されるためでしょう。明日、午前の飛行機が最後です。その最後の便に、お二人のお席をとっております」
しんと静まりかえる執務室。心なしか、ジェベルの笑みが寂しそうだった。
桃矢も、桃果も声が出なかった。いや、話す言葉が見あたらなかったと言うべきか。
しかし、話せる議題が一つだけ残されていた。
「三つ目の問題は何ですか?」
桃矢が口を開く。問題は最後まで聞いておくものだ。
寂しそうな笑みを浮かべたジェベルが、第三の問題を口にした。
「温暖化による水位の上昇です。このままですと十数年後に、ゼクトールは比較的海抜の高い神殿半島の一部を残して、全て水没してしまいます」
これこそ国家存亡の危機。じわじわと真綿で首を締め上げていく、緩やかな滅び。
「小さな海洋国家は全て、海面上昇に怯えています。一方、炭酸ガスの大排出量国である先進国は、効果的な削減策をとってくれません。むしろ、迷惑がっている節が見られます。なぜでしょう? 我々小さな島国よりも、大気と大地を汚す企業からの収益が大事なのでしょうか?」
その、大量排出国の一つである日本から来た桃矢と桃果。
桃矢は、彼女らに言うべき言葉がないことに気付いた。
「同じような問題を抱える小さな島国。特に海抜の低い国々と共闘しましたが、それは別問題だとして棚上げを喰らいました」
地球温暖化による水位の上昇。テレビの特番やニュースで見た映像が、桃矢の脳裏に浮かんできた。
あの時は大して気にかけてなかったけど。
「それはさておき、昼食の時間が大きくずれてしまいましたね。まずは腹ごしらえと致しましょう」
ジェベルが笑顔を浮かべる。うまくはぐらかされてしまった。
ジェベルは元通り、笑顔のジェベルに戻っていたのだった。
次回「エンスウ」