1.ニホン
序.
白い指だ。
細くてしなやかな少女の手が、白い砂に埋もれかけた写真を拾い上げた。
端が焼けこげた大判の写真。
細くて華奢な少女の手が、白い埃を丁寧に払いのける。
どこかぎこちない笑顔で収まる、十一人の集合写真。
中央に映っているのは、夏の制服を着た少年と少女だった。
1.ニホン
「ちょっと桃矢!」
怒りにまかせた幼馴染みの声と共に、A4サイズの雑誌を入れた紙袋が、桃矢の後頭部に直撃した。
芦原桃矢は、言い返したい言葉を飲み込んで、頭を抱えうずくまる。おさまりの悪い毛が一本、指の間から飛び出して左右に揺れていた。
「デートしてた女の子に対して、何も言わずに先に帰るってどうよ? それでも健全な高校生? 十七歳男子?」
雑誌を拾い上げ、砂埃を丁寧に払い落とした後、騎旗桃果は不平を口にした。
「デートって、……桃果ちゃん。学校の帰りに寄った本屋でフランカーの特集号を食い入るように立ち読みしてたのは誰ですか? ロシア製新鋭戦闘機を穴が空くくらい眺めてるだけのデートなんて初めて聞いたよ」
アドレナリンが誘発した汗が、桃矢の額を濡らす。
汗を拭う手が、意図的に長く伸ばした前髪をかき分ける。
髪の隙間から大きなホクロが顔を出す。綺麗な五角を持つ星形の珍しいホクロだ。
ホクロが空気に触れたことを察知した桃矢は、慌てて前髪を下ろす。
「お! 桃矢の恥部を見るの久しぶりね!」
桃矢は、嫌そうな眼で桃果を見上げる。
夕方とはいえ、まだまだ力を保ったままの太陽。その陽光を背にした桃果は、光の中にいた。
夏の制服がよく似合う桃果。スカートのプリーツを透かして、形よい足が見える。
桃果は無邪気に笑っていた。
何物にも代えがたい輝きの笑み。このかわいい笑顔を見たいが為に、同年代の男共は身の程を超えた努力にいそしむのだ。
生まれたときからの付き合いを誇る桃矢でも、時々だまされたくなる太陽のような笑顔。
道行く十人が十人とも振り返るほど可愛いんだけど……中身を知ってる桃矢は素直な反応をよこさなかった。
「戦闘機の写真集だから痛かった?」
背中まで伸ばしたサラサラの黒髪を指ですくい上げる桃果。
いまだ痛みの引かない頭頂部を片手で押さえている桃矢。
「写真は鉄の塊のを撮ったんだろうけど、媒体は紙だからね」
「じゃ、痛くないわね。さ、帰ろ帰ろ!」
話は済んだとばかりに、ズカズカと歩を進める桃果。
桃矢には、そのいい加減さに思い当たる節があった。
「桃果ちゃん。ご両親さぁ……」
「言わないで!」
先程までのおどけた空気がない。桃果は、ぴしゃりと桃矢の言葉を封じた。
桃矢は肩をすくめてから歩き出す。桃果も、無かったことにして先を歩いている。
毎日の毎回の繰り返し。いつの間にか、いつもの終わりが始まっている。
角を曲がれば桃矢の家。向かいは桃果の家。
角を曲がれば……。
「あれ?」
「なによ?」
曲がったとたん、桃矢が立ち止まる。芦原家の前に止まった、黒塗りの大型車が一台。
車の周りには、ガッチリした体格かつ黒服の男達――ならぬ、グレーの制服が三人。
「軍服……のコスプレ? 」
桃矢の頭の中をいろんなアニメ雑誌記事が、回り灯籠のようにゆっくり回転している。が、見覚えのないデザインだ。
灰色の男達の背後から、四つめの影が現れた。同じデザインの軍服を着ているが……。
線が細い。
桃矢と同い年であろうと思われる、背筋を伸ばした美少女が、七分の構えで立つ。
後ろになでつけた短い金髪は絹のように細く、アイスブルーの目が底抜けに冷たい。
どのような混血の結果か? きめの細かい浅黒い肌が、彼女の人種を複雑にしていた。
「トーヤ・アシハラ様……ですね?」
「は、はい」
それを合図に、男の一人が車の後部ドアを開ける。と、同時にエンジンがかかる。
これはまずい。大変まずい展開だ。桃矢の脳裏に「拉致」の一言が浮かぶ。
「初めまして。わたくしミウラ・ヴァイツと申します」
肩パット入りの制服とタイトミニが、凛々しくも美しい。
「事は急ぎます。トーヤ様、我らとご同行願います」
両脇を灰色の男達にガッチリつかまれた。万力で腕をはさまれた感覚。もがいてみるが微動だにしない。
「ちょっと、あなた達誰よ? ここは法治国家日本よ! 最近この近くで誘拐事件があってね。この辺、警察のパトロールが頻繁なのよ!」
桃矢と車の間に立ちふさがる桃果。こういう時に機転の利く、頭の回転が速い子だ。彼女を頼もしく思う時点で、男失格だなと思う桃矢。
厳つい男が、丸太のように太い腕を伸ばし、桃果をよっこらせと脇へ退かす。
ミウラと名乗る少女は、微笑みもしなかった。
桃矢は、鏡で自分の顔を見たくなった。我ながら情けない顔をしているだろうと思う。
「だめよ! 桃矢はこれからあたしと百里へ、イーグル見に行くのよ! 先約よ!」
「そんな約束してないって! 僕は軍事オタじゃないから」
桃矢とミウラの両方から無視される桃果。だが、負けない。
再び、前に回り込む。
「これを見なさい! このひもを引き抜くと警報が鳴って警察が大挙して押し寄せてくるわよ! そうならないうちに桃矢を離しなさい!」
桃果が持っているのは白い携帯と、訳あって表現できないが、世界一有名なビーグル犬のストラップ。
引き抜いたところでブザーは鳴らない。お子様携帯であるわけでなし、もとよりそんな機能はついていない。
ミウラはまじまじと桃果を見つめている。
「さあ、どうするの――あ!」
桃果の携帯は、手首のスナップを利かせたミウラの猫パンチではたき落とされた。
「ああっ、ちょっと!」
嫌な音を立てて落下した携帯を拾い上げようと、慌ててしゃがみ込む桃果。
「あああぁ、ちょっと! ちょっと!」
一方、宙ぶらりんになった桃矢。抵抗虚しく、コンパクトに車の中の人となる。
と、窓の外に母の姿を見た。
「お母さん! 助けて!」
車の中から大声で叫ぶ桃矢。
偶然か神の思し召しか。うまい具合に母と視線が合った。
「行ってらっしゃい。体に気をつけるのよ!」
笑顔で送り出す母。手を振っている。
店の奥から、父が姿を現した。
「父さーん! 助けてー!」
ウインクしながらサムズアップする父。キラリと光る白い歯がとてもダンディ。
「どういうことーっ?」
桃矢のいつもの日常は、あっけなく幕を閉じたのだった。
有無を言わさず空港へ。国際線の大型ジェットに乗ること十数時間。
さらに、一回り小さいジェット旅客機に乗り換えて数時間。もう一度乗り換えた三十人乗りのプロペラ機が水平飛行に移った時、たまらず桃矢が口を開いた。
「あの! 僕どうなっちゃうんでしょうか?」
対して、大きく目を見開くことで答えるミウラ。
「どうって……トーヤ様、なにがどうなのでしょうか?」
桃矢は理解した。話が噛み合ってないのを。
「何で僕が拉致されなきゃならないんですか?」
ミウラは微かに口を開いて動かなくなった。目の光も鈍くなっている。
桃矢が待つこと十数秒。状況を判断しおえたのか、ミウラの目に再び明かりが灯る。
「ひょっとしてトーヤ様、ご両親からは何も聞いておられないのでしょうか?」
自分のことを「様」付けで呼んでもらっているところを鑑みるに、可及的速やかな危機はなさそうだ。と、なると、桃矢にも、ある種の感情が自然発生する。
ズバリ、その名は怒り。
「だから、何が何だか解らないから聞いてるんですって!」
「アイヤウェイ!」
母国語であろうか? 聞いたことのない単語を口走り、左手を額にあてるミウラ。なにか重大な齟齬をきたしたらしい。
ミウラは居住まいを正した。
「トーヤ様。数々のご無礼お許し下さい。改めて全てをお話しいたします」
一旦言葉を句切り、ミウラは視線を前後左右に素早く走らせる。その仕種につられ、桃矢もキョロキョロとあたりを見渡した。
いつの間にか、灰色の大男がいなくなっている。その代わり、不自然な人が増えていた。
アロハシャツを着た人の良さそうな老人が、紙コップに入ったコーヒーをすすっている。新聞を広げる背の高い婦人。居眠りする老婆。難しい顔をして窓を睨んでいる中年女性。
人種はバラバラだが、ミウラの軍服を気にしている人は一人もいない。
これはっ、全て同じ穴のムジナっ?
「我らが母国の名はゼクトール。ゼクトール王国と申します」
姿勢の良いミウラがさらに姿勢を正す。
桃矢は、初めてミウラを正面から見据えることになる。小さい顔。日本人離れした美しき風貌。……日本人ではないが。
威風堂々としたその態度、とても同年代には見えない。
桃矢はミウラの瞳の色、アイスブルーが、色に等しい温度をもったように感じた。
「トーヤ様はゼクトールの次期国王なのです」
この間、きっちり三秒。
「はい?」
いまいち、よく聞き取れなかった。
「トーヤ様は、ゼクトール民主主義国前国王ゼブダ・バルギトル・ゼクトール様の跡継ぎなのです」
「えーと、……いい病院紹介しましょうか?」
「言い直しましょう。前国王が身罷られた今、トーヤ様が次期国王に決まったのです」
「なんですとぉーっ!」
前の席から身を乗り出して叫んだのは桃果であった。
全40話程度の予定です。