第三章・2
―2―
「近年は人の夜行化が進行しつつある。24時間営業の店に深夜番組。終電までの残業。それによって増えたのがショートスリーパーと呼ばれる人たちだ」
霧藤の話を聞き流しながら、灯はカウンセリングルームのいつものソファで、携帯電話を弄っていた。
「この人たちは毎日の睡眠が、三時間ほどでも健康を保っていられる。これは日々の睡眠時間を徐々に減らしていき、体を短い睡眠に慣れさせる事で可能とされている。僕自身、このショートスリーパーでね。健康かと言われるとそうでもないかもしれないけど。ただ、眠りを完全に無くす事は今の所、不可能とされている」
灯の態度を気にする事無く、灯の正面のソファに座った霧藤は話を続ける。
「過去に自分は眠らないと主張していた女性がいたんだけど、詳しく調べた結果、彼女が実はマイクロスリープを取っていたことが判明した」
「……マイクロスリープ?」
携帯電話のディスプレイから視線を上げて、灯はチラと霧藤を見た。
「そう、マイクロスリープ」
先ほどまで、ずっと話し続けていたのに、今度はそれしか言わない霧藤に、灯は仕方なく携帯電話をテーブルに置く。
「その女性は、確かに夜、通常の人が眠りにつくような睡眠は取っていない。また日中、居眠りをしている様子も見られなかった」
灯の興味を引けたことに満足そうに、霧藤は続きを話しだす。
「しかし、その女性を詳しく調べた結果、一日のうち何度か、数秒間づつ固まったように動かなくなることがあった。これがマイクロスリープだった」
「動かなくなる?」
「脳が勝手にスイッチを切るんだよ。さっきも言ったように、睡眠を完全に無くすことは実質不可能なんだ。眠れない、眠っていないと本人が思っていても、脳は自身で防衛本能として、このたった数秒から数十秒の休息を体に取らせることで、最低限の生命維持を計っている」
霧藤は両手を組むとテーブルに肘をついて、組んだ手に顎を乗せると、灯をじっと覗き込むように見た。
「もしかしたら、灯君もマイクロスリープを取っているのかもしれない」
「そんなの知らないわよ」
「うん。これは本人の自覚もないし、ほんの数秒から十数秒のことで、目を開けながらなんてこともあるんだ。それに、いつ起こるかも分からないから、確かめるには数日間、それも一日中の観察が必要だね」
観察という言葉に、灯が顔をしかめた。
「冗談じゃないわ」
「そう言うと思ったし、僕もできればやりたくない。僕一人じゃ無理だしね。僕は眠らないではいられない」
簡単に言った霧藤に、医者の癖にそれでいいのかと思う。
「灯君は前に、眠りなんかいらないって言ってたよね」
「ええ。私は眠りなんかいらない」
「ある研究所では、遺伝子の操作によって、眠らないハエを作る事に成功したそうだ」
「この前はネズミで、今度はハエなの」
唐突に話を変えた霧藤に、うんざりした灯はソファに体を沈めると、天井を仰いだ。
「しかし、この眠らないハエは、眠らず活動し続ける代わり、どのハエもすべて短命に終わった」
そこでまた、霧藤は一度言葉を切ったが、灯は天井を見上げたまま、無反応を決め込むことにした。
すると、ゆっくりとした口調で、霧藤はその話の終末を口にする。
「まるで、眠りの分を命で補うように」
なるほど。それが言いたかったのか。
「私を不安にさせたいの」
「僕は君を心配しているんだよ」
医者から言われる『心配』という言葉は、なんて信用できない言葉なんだろう。
ぼんやりと考えていた灯は、体を起こし、ソファから立ち上がった。
「もう時間よね」
「そうだね」
腕の時計を見る霧藤に、灯はそれ以上何も言わずにドアへと向かう。
部屋を出る灯の背に、霧藤は今回は何も言わなかった。