第二章・3
―3―
「おかえり」
夜中、風呂から上がって部屋へと戻ろうとした灯は、丁度帰ってきた父親と玄関で出くわした。
「あ……ああ……ただいま」
父親は灯と目を合わせることもなく、猫背の体を更に丸めるようにして、靴を脱いだ。
灯の父は弱い人だった。
妻の灯に対する態度を良くないと思っていても、それが灯のせいではないと分かっていても、何も言うことができない人だった。
女三人の家の中には、心休まる場所がないせいか、さほど忙しいとは思えない会社でも、父は必ず遅くまで残業をして帰ってくる。そして、また朝早くには家を出て行くのだ。
それでも、灯は知っている。妹の蛍と、蛍がする馬鹿な話に笑う妻の前では、父の顔にも笑顔が浮かぶことを。
「私、一人暮らししようかな」
廊下で居間に向かう父が自分の脇を通り抜けようとしたとき、灯は言った。
父は疲れた顔で灯を見たが、灯の言葉に驚くことも、聞き返すこともしなかった。
「そういうのは……お母さんに相談しなさい」
ボソリと呟くように言って、父は居間へと入っていった。
◆◆◆◆◆◆
「霧藤」
「何だい」
時間には遅れたものの、診察をキャンセルをせずにやって来た灯に、霧藤は紅茶を入れ、テーブルを挟んで灯の正面にあるソファに腰をかけた。
香りの良い紅茶は、いかにも灯の心をほぐすために用意されたアイテムのようで、気に入らない。
「霧藤は最近どんな夢を見たの」
「夢?……そうだな……」
灯の質問に霧藤は天井に目をやり考えていたが、やがて首をすくめて
「見てないな」
と答えた。
「何か夢を見ていても、起きたとたんに忘れている。そんなに睡眠を取ってるわけでもないしね。怖い夢で目が覚めるなんてこともないよ」
「なんだつまんない」
「悪かったね」
苦笑いする霧藤。
わずかに口の端だけを上げる笑み。
こうやって改めて見ると、やはりいい男だと思う。
スラリと長い手足。座っていても分かるモデルのようなスタイルの良さ。染めている様子はないが、黒というよりやや茶色がかった柔らかそうな髪。理知的な瞳に薄い唇。
自分と同じ歳の異性にはまるで感じられない、大人の色気。
霧藤は自分のために入れた紅茶を、その形のいい口元へと運んだ。
「僕からすると、眠らなくて済むというのは、少々羨ましいんだけど」
「ねえ、霧藤」
灯はソファから立ち上がり、座っている霧藤の前に立つと、その顔を覗きこんだ。
「私と一緒に寝ない?」
唐突に言った灯だったが、霧藤の表情に特に変化はない。
テーブルに紅茶のカップを置くと、霧藤は逆に灯に訊いてきた。
「それはどの意味の“寝る”かな」
「そんなの、決まってるでしょ」
霧藤の膝に乗り上がるようにして、灯は霧藤のネクタイを掴むと顔を寄せて言った。
「日本語の寝るには大きく三つの意味がある」
灯の行為を止めるでもなく、抵抗するでもなく、ゆっくりとした口調で霧藤は話を続ける。
「三つの意味?」
「一つはもちろん“睡眠”。もう一つは“性行為”」
「……あと一つは?」
訊いた灯に、口元に小さく笑みを残したまま、霧藤は答えた。
「永遠の眠り。つまり“死”を意味する」
ガタン。
物音がして、霧藤の顔からからかうような笑みが消え、音のした方を見る。
灯もそちらに顔を向けた。そこには隣の部屋へと続くドアがあった。
「……隣に誰かいるの?」
「ちょっとね。前の患者が気分を悪くしたから、休ませてたんだ」
霧藤は素っ気なく灯の腕を取ると、乗り上がっていた灯の体をどかすように立ち上がった。
「そろそろ時間だけど、何か他に気になることはあるかな」
霧藤は少し緩んだネクタイを直した。
どこか事務的な言葉に、早く帰って欲しいというようなニュアンスを感じる。
どうやら、隣の部屋にいる患者が気になるようだ。
「ないわよ」
一気に興醒めして、灯は鞄を掴みドアに向かった。
「今度は遅れないように」
部屋を出るときにかけられた言葉は、また無視をしておいた。
永遠の眠り。
自分にもそのときが来たら、そのときは、自分も眠りにつくことができるのだろうか。
もし、死を迎えても眠ることができないなんてことになったら?
馬鹿らしい。
それじゃあゾンビじゃない。