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第十一章・1

第十一章


―1―


 その日、灯は一日中蜃気楼にいた。

 ただでさえ薄暗い店内は、日が暮れてさらに暗くなってくる。

 今日もほとんど客は来なかった。茶を飲みに来た二人連れの男女が一組やってきた他、鈴の夢占目当ての女性客が二、三人訪れただけだ。

 加えて今は、鈴が眠ってしまったため夢占もできない。

 これでこの店は大丈夫なのかと、いらない心配をしてしまう。

 しかし、夢占目当ての女が来ると、なんだか面白くない。いったい鈴とどんな話をしているのだろう。座敷部屋を出てくる彼女らは、みんな満足そうに帰って行くのだ。


 一方、灯はというと、もうここにきて二週間になるのだが、未だに鈴は一度も灯に眠りをくれていなかった。

 それは灯にとって、もちろん不満ではあったが、ここでの鈴との生活の中に、今まで感じた事のない、安らぎのようなものがあることに、灯は気がついていた。

 眠りは灯にとって安らぎだ。それは分かる。手っ取り早く手に入る快楽。体の緊張が解かれ、頭を一度リセットするような、スッキリとした感覚を、今でも覚えている。

 でも、これはどういうことなのか分からない。自分は鈴から眠りをもらうためにここに来たのに。

 今でも眠りは欲しい。

 でも、眠りがなくても苦しくない夜があることが分かった。

 いったい、ここで自分は何をしているのだろう。


 がら空きの蜃気楼のソファ席でぼんやりとしていると、大酉が店仕舞いを始めた。


「灯ちゃん、暇なら店の外の看板、仕舞ってくれないかな」

「女の子に力仕事させるなんて最低」

「えぇ~……」


 納得いかない顔をしながら、大酉が自分で看板を仕舞おうとしたとき、バタバタと慌ただしい音がして、鈴が座敷部屋から転がり出て来た。

 もともと青白い顔を更に蒼白にし、前屈みに口元を押さえ、そのまま店の奥へと駆けて行く。

 あっちには二階の住居へと繋がる階段と、トイレしかない。


「鈴さん……」


 それを見た大酉が、店の入り口に看板を置きっぱなしにして、鈴の後を追いかけた。

 気になって、灯も恐々覗いてみると、開けっ放しのトイレのドアの向こうで、鈴が洋式の便座の上に覆い被さるようにしてしゃがみ込み、吐いていた。

 その背を大酉がゆっくり摩っている。


「灯ちゃん、水持って来てくれる?」


 大酉の頼みに今度はすぐに頷き、コップに水を入れ持ってくる。

 大酉は灯からコップを受け取ると、鈴を支え起こし、口元にコップを持って行く。以前にも同じことがあるからか、大酉の介抱は手慣れていた。

 鈴は自分もコップに片手を添えながら、口に水を含むと洗面所に吐き出した。それを三回繰り返した後、残りの水を飲み込み、鈴はトイレから出て来た。

 そこにいる灯など目に入っていないかのように手の甲で口元を雑に拭いながら歩いてくる鈴に、灯は狭い通路の壁に背をつけて端に寄る。


「あ……」


 声を掛けようとしたが、言葉が出て来ない。

 鈴はそのまま灯の前を通り過ぎ、座敷部屋へと上がると、ピシャリと戸を閉めてしまった。

 大丈夫だろうか。


「こういうときの鈴さんは気が立ってるから。そっとしておいて」


 トイレを片して出てくると、大酉は灯にそう言って、途中だった店仕舞いを再び始めた。


 そんなことを言っても。

 本当に放っておいていいのだろうか。


 灯は戸に手を掛けると、細く開いて中の様子を見る。鈴は入ってすぐの所で、こちらに背を向けて机に突っ伏していた。

 平気な訳が無い。あんなに苦しそうだったではないか。

 灯はそっと中へと入ると、鈴の背後に膝をついた。


「あの、鈴様?」


 呼びかけ、その小さな背に手を伸ばした。

 指が触れるか触れないというときだ。鈴が体を起こし振り向くと、灯を突き飛ばし、灯は畳に尻餅を着いた。

 まるで、病院で初めて会ったときのように。


「いい加減にしろよ! 眠りをやるつもりはないって言っただろ! 二度と俺に触るな!」


 鈴は顔を伏せたまま、灯に向かって激しい口調で、そう怒鳴った。


 そう、あのときも触るなと怒鳴られた。

 でも、違う。

 違うのだ。

 自分はただ……


 なんだろう。息がうまくできない。

 苦しい。


 鈴は何も言い返して来ない灯に、伏せていた顔を上げた。

 そして、灯は鈴の顔が驚きに変わるのを見た。

 灯は自分でも驚いた。

 灯は泣いていたのだ。


 堪えようとしても止まらない。噛み締めた唇が震える。涙は次から次へと溢れてでてきた。

 困った灯は、それを見られたくなくて、下を向いた。

 すると頬を伝っていた涙は、みっともなくボロボロと畳へとこぼれ落ちた。


「灯」


 聞こえてきた鈴の自分を呼ぶ声は、いつもの静かな響きに戻っている。


「わ……私……ただ……りっ、鈴さ……苦……そだ……から」


 話そうとしたら息が詰まり、しゃくり上げながら言った言葉は、意味が分からない途切れ途切れの文となって口からでてきた。

 思わず自分の思い通りにならない口元を両手で隠す。


 こんな顔は見られたくない。

 こんな姿は見られたくない。


 いたたまれなくなって、灯は座敷部屋を走り出た。



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