第十章・3
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「灯!」
校門を出たところで、またも灯は呼び止められた。
気づかない振りをして行ってしまおうかと思ったが、こちらに駆けて来る足音に、灯は仕方なく足を止めた。
「やっぱ灯だ」
友人が二人、灯の両側から腕を絡める。
「ねえ、私たち今からカラオケ行くんだけど、灯も一緒に行こうよ」
「今から?」
「そう。割引券もらったんだ!」
蜃気楼での生活が始まってからは、まだ一度も夜に出歩いたことはなかった。別に外出を禁じられているわけではない。
どうしようか。なんだか色々なことがモヤモヤと駆け巡るこの頭を、馬鹿騒ぎでもして空っぽにしたい気もする。
「灯~。行かない?」
甘えるように腕にぶら下がる友人を引き剥がし、灯は言った。
「行く」
「やった! そうこなくっちゃね」
友人に背中を押されながら、灯は夜の街へと久しぶりに出向いていった。
◆◆◆◆◆◆
灯が蜃気楼に帰ってきたのは、もう夜中の十一時を過ぎていた。店のドアは閉まっていて、灯は渡されていた裏口の鍵を取り出す。閉店後はそこからでないと入れないことになっているからだ。
そっと扉を開ける。蜃気楼の厨房奥にある裏口は真っ暗で静まり返っている。窓からもれるわずかな明るさを頼りに、手探りで店内へと向かう。
やっと厨房を出た灯だったが、
「おかえり」
突然掛けられた声に、心臓が跳ね上がるような気持ちを味わった。
「鈴様……。起きてたんですか」
とっくに眠っていると思っていた。
まさか、灯が帰って来るのを待っていたのだろうか。
「俺はいつも突然眠りに落ちるけど、いざ自分で眠りたいと思っているときには、寝付けなかったりするんだよ」
「そうなんですか……」
少しガッカリする自分に気づく。
「夕飯は?」
「あ、外で適当に食べました」
「そう」
鈴は座敷部屋に上がる。別に遅く帰ってきたことを咎められたりはしないようだ。
「灯」
鈴は部屋へ行こうとした灯を手招く。灯はいそいそと座敷部屋へ上がった。
「朝まで何かやることある?」
「……別に、特に決まってませんけど」
「じゃ、ちょっと付き合わないか」
鈴はちょっと弾んだ声で言って、何かを取り出した。埃っぽい印刷の掠れた箱に入っている、ボードゲームのようなものだった。
「この前、大酉が部屋を掃除したときに出てきたゴミの中にあった」
「どうやって遊ぶんですか」
「ひらがなのカードが入ってて、それを使って単語を作るんだ。単語が作れなくなった時点で終わり。最終的にカードをたくさん持っている方の勝ち」
「なんだか頭使いそうなゲームですね」
「俺も、こう見えてなかなか悪くないんだよ」
指で頭を叩き、得意そうに笑う鈴に灯も挑戦的に笑った。
「お相手しましょう」
ゲームはなかなか面白かった。カードが多いときには、できるだけ長い単語を作り数を稼ぐ。カードの枚数が減ってくると、単語を作るのは難しくなってくる。
そして、ゲームが進むにつれ、鈴がちょっとしたズルをし始めた。
有りもしないであろう単語を作っては、あたかもそれが存在するかのような御託を並べるのだ。
「……鈴様、『むさで』って何ですか」
「なんだ、灯は知らないのか。虫だよ、虫の名前」
「虫?」
「まあ、女の子だから知らなくても仕方ないけど。ほら、足がいっぱいある奴」
「それは『むかで』じゃなくて?」
「違うって。『むさで』には羽も生えてる」
とか。
「『わのそう』って何です?」
「草の名前。輪っかの輪に、野原の野に草で『輪野草』。春になると丸い花が咲く」
――など。絶対に嘘だ。
「じゃあ、今、調べてみます」
「うちには植物辞典もパソコンもない」
言った鈴に、灯は勝ち誇ったようにポケットから取り出したものを見せる。携帯電話だ。
「私にはこれがありますから」
「あ、ダメ。ずるいずるい」
笑いながら鈴は、灯の手から携帯電話を取った。
ほら、やっぱり。
「どっちが。もう、返してくださいっ」
携帯を取り返そうと灯は鈴に手を伸ばす。灯が鈴の手首を握ったとき、鈴の体が強張った。携帯電話が鈴の手から落ちる。思わず灯は鈴から手を放した。
「……ごめん」
鈴が謝った。
さっきまであんなに楽しかったのに、なんだか急に寂しくなる。
鈴が悪いわけではない。なのに鈴を謝らせた。それが哀しかった。なぜ、こんな気持ちになるのか。
「……あの、鈴様?」
「うん?」
二人で散らばったゲームのカードを片付けながら、灯は言った。
「獏って知ってます?」
「あの空想の方の?」
「はい。悪い夢を食べるあれです」
「知ってる」
「私、きっとそれなんです。鈴様の」
灯の言葉に鈴はまた少し笑った。
「俺の悪夢を食べちゃうんだ?」
「はい」
「……有難う」
鈴はカードをゲームの箱に仕舞うと、蓋を閉じた。
「でも、俺は灯に眠りはやれない」
言った鈴は、机の上にだるそうに腕を組むと、そこに頭を乗せた。
「ごめん。やっぱり朝までは無理だった……」
「え?」
灯が訊きかえそうとしたときには、鈴はもう落ちた後だった。
眠れない灯と、朝まで一緒に起きていようとしていたのだろうか。
どうして。
この胸に溢れる感情はなんだろう。
こんな夜は初めてだ。
灯は鈴の肩にそっと毛布を掛けた。