第十章・1
第十章
―1―
灯はバスを降りると、蜃気楼への道のりを少し小走りに帰った。早く帰りたい気分だったのだ。
今日は数学のテストが返ってきた。百点満点のそれが鞄の中に入っている。満点なんていうのは、灯にとっても珍しいことだ。
今まで、そんなことは気にもしたことがなかったが、テストを受け取ったとき、百点という点数を見て、それ以上、上がることのないこの点数を見たら、鈴はどんな反応をするだろうと思った。
もちろん、ご褒美なんてもらえないだろう。掛けられるのも、ただ「頑張ったね」の一言だけかもしれない。それでも、鈴に見て欲しいと思った。
蜃気楼のドアを開く。ドアベルが勢い良く鳴る。
「ああ、灯ちゃん、お帰り」
大酉がカウンターを拭きながら言った。
他に客がいないことを確認すると、灯は座敷部屋に向かい戸を開けた。
「鈴様っ」
しかし、そこに居た人物に、灯の心が急速に冷めていった。
「お帰り。早いね」
霧藤だった。霧藤は座布団を枕に、仰向けに横たわっている鈴の手首を握っている。脈でも計っているのか、灯の方に顔も向けず、腕時計に目をやっている。
灯は今になって、座敷部屋の上がり口の下に、男物の綺麗に磨かれた革靴があるのに気づいた。
ローファーを脱いで、灯は自分も座敷部屋に上がると、霧藤の肩辺りの上着を引っ張る。
「何するんだい」
霧藤が時計から顔を上げて灯を見る。
「鈴様は寝ている間、誰かに触られるのは嫌いだって言ってた」
霧藤を睨みつける灯とは逆に、霧藤は灯の言葉にハハと声を出して笑った。
「驚いた。君が鈴を守るのかい。それはいい」
そして、灯の手を解くように掴まれた上着を引く。
「でも、邪魔しないでもらえるかな。僕は鈴の主治医でね。さっき鈴が吐いたって聞いたから、様子をみる必要があるんだよ。鈴のためを思うなら、そこで大人しくしててくれないか」
吐いたという言葉に、灯は鈴の顔を見る。また眠ってしまっている鈴の顔は、いつもより白く青ざめているように見える。まるで生気のない人形のようだ。
心配そうに鈴を見つめる灯に、霧藤は訊ねた。
「そういえば、眠りは貰えた?」
灯は首を振った。
「ここに来てからはまだ」
「そう。それにしては、ずいぶんと君は顔色が良い。体調も良さそうだ」
捲り上げていた鈴の袖を直すと、霧藤は灯に向き直る。
「恋愛は脳の錯覚だという話を知ってるかな」
唐突に出てきた恋愛の二文字に、灯は不信感をあらわに霧藤を見た。
「行動から始まる恋愛は、脳の勘違いから生じる物が多い。誰かのために何かをすることで、それをしている自分は、おそらくその人が好きなのだろうと思う。自分はこの人にこんなに尽くしているのだから、自分にも何か見返りが有るべきだ。そこに、相手からの愛情を求めるようになる」
いったいなぜ、霧藤はこんな話を始めたのだろうか。
「また人を好きになると、その人に会うことで脳内からフェノールエチルアミンと言う脳内物質が出る。逆にこの物質が出ているときに、出会った人間のことは好きになる確率も高い。さらに、この物質によって得られる快楽は、麻薬の何倍にもなるらしい。身体はこの物質を欲しがって、その人に会いたい、恋しいと思うようになる」
専門的な用語が混じった言葉に、更に灯の疑心が高まる。
「この物質は言ったように、強力な快楽をもたらすもので分泌し続けると危険だ。脳内の分泌もやがては収まる。この分泌が収まるまでに深めた絆によって、恋は愛着という名の、なくなると寂しいと感じる情に変わる」
「……いったい何が言いたいの」
霧藤の真意を確かめるように、じっとその目を見ながら訊く。霧藤は動じることなく、灯を見返してきた。
「別に。ただ、君の努力が報われるといいと思ってね」
まるで灯が鈴に恋をしているとでも言っているような言葉。まるで灯が欲しがっているのは、鈴自身なのではないかと言いたそうな言葉だった。
「私が欲しいのは眠りよ。他には何もいらない。眠りが欲しくて、私はここにいるの」
なぜか言葉に力がこもる。強い調子で言い返した灯に、霧藤は目を細めた。
「そう、じゃあ、大事にするんだね。君に眠りを与えられる唯一の存在を」
「言われなくてもするわ」
灯は霧藤と鈴との間に、自分の体を割り込ませた。
「出て行って。私がいる間は、寝ている鈴様には触らせない」
そんな行動を取る灯に、霧藤は少し笑ったように見えた。
「それじゃ、後は宜しく」
霧藤は座敷部屋に鈴と灯を残し、上着を羽織ると部屋を出て行った。
灯は鈴を見た。まだ目覚める様子はない。いったい今、どんな悪夢を見ているのだろう。戻すほど気分の悪いものなのだろうか。
灯は鈴の手を握った。
やはりすでに眠ってしまっている鈴から、眠りを取ることはできなかった。