第九章・2
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灯は制服に着替えた。
昨日は荷物の整理で一日中、部屋の中にいた。
カーテンを開けて窓から外を見る。古い木枠の規格外に大きな縦長の窓だ。大きいが、路地裏に位置する蜃気楼では、外に見えるのは向かいのビルの壁だけ。むしろ、このぐらい大きくないと、日の光も入らないのではないかと思われる。いい天気なのに、蜃気楼はどこか薄暗かった。
鏡を見て髪をちょっと手で整えると、鞄を手に灯は部屋を出た。
目の前のダイニングキッチンのテーブルに、鈴が座っている。住居部分であるこの二階も、下の店と同じく、モダンで古めかしい家具で揃えられ、ノスタルジックな感覚に襲われる。
「おはよう」
「おはよう…ございます」
先に挨拶されて、まだ慣れない挨拶を返す。
「待った。まだ朝食を食べていないだろ」
そのまま出て行こうとする灯に、鈴がテーブルの開いている席を叩いて言った。座れということだろう。
「私、朝はいつも食べないから……」
「そんなことは知らない。だいたい、昨日も食事に出てこなかっただろ」
有無を言わせない鈴の口調に、灯は渋々席に着く。仕方ない。こんなことで鈴の機嫌を損ねるのは良くないだろう。
大酉が目の前に朝食を運んでくる。
湯気の立つ、炊きたての艶のあるご飯に、豆腐と油上げの味噌汁。香ばしく焼き上げたベーコンと目玉焼き。それらをそれぞれの席に運ぶと、大酉は茶を入れ始める。それが終わり、大酉も席に着くと、鈴は手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます……」
灯も真似して手を合わせる。
こうしてちゃんとした朝食を食べたのは、いつぶりなんだろうか。そんなことがあったかどうかも、よく分からない。
何から手を付けたらいいのか戸惑い、箸を手にチラと鈴を伺う。
「大酉」
「はい」
鈴が手を差し出すと、当然のように大酉はその手に醤油の小瓶を手渡した。
鈴は目玉焼きの黄身のうっすらかぶった白い膜を割り、鮮やかなオレンジ色を見せた程よく半熟状態のそこに醤油を垂らすと、箸の先で少し混ぜ、それにつるっと焼き上げられた白身をつけて口に運ぶ。
鈴は目玉焼きを口に入れ、灯に見られていることに気づき、顔を上げた。
「日暮さんは醤油?」
鈴がふとそんなことを言った。何のことだろう。その前に、
「あ、私のことは、灯でいいです。灯って呼んでください」
「……じゃあ……灯……」
少し渋い顔で鈴は改める。
「愁成はいつもソースなんだ。信じらんない」
そう言って、鈴は大酉に醤油の小瓶を返す。大酉は笑いながら、それをテーブルの真ん中の調味料置きに戻した。
どうやら、目玉焼きにかける調味料のことを言っているらしい。
別にどちらとも決めているわけではないけれど……。灯は調味料置きの醤油を手に取った。
そして、ただ焼いただけの卵料理が、こんなにおいしい物だったのかということに、灯は小さな驚きを感じた。
「いってらっしゃい」
灯は蜃気楼のドアから出て行くとき、座敷部屋へと入る鈴に声を掛けられ振り向く。灯の返事を待つように、戸口の柱に寄りかかり自分を見る鈴に、
「いってきます」
答えた灯に納得したような顔をすると、鈴は部屋の戸を閉めた。