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第九章・1

第九章


―1―


 鈴は天井に目をやった。

 いつもは物音一つしない静かな二階から、ガタガタという音がしてきたからだ。大酉が掃除でもしているのだろうか。

 座敷部屋の戸を開け店を見ると、もうとっくに開店時間を過ぎているそこに大酉の姿はない。

 蜃気楼の二階は住居となっており、2LDKの一部屋が大酉の部屋となっている。もう一つは一応、鈴のための部屋となっているのだが、鈴は食事や風呂など用事があるときしか、二階へとあがることはないため、部屋は物置と化していた。

 

 鈴は住居へと繋がる通路を覗き込む。いったい何をしているのだろうか。大酉の名を呼ぼうと鈴が口を開けたとき、店のドアベルが鳴るのが聞こえた。


「やあ、おはよう」


 開店前の店に入ってきたのは、霧藤だった。大きな旅行用のスーツケースを引いてきた霧藤を、いぶかしげに鈴は見た。


「とうとう国外逃亡でもするのか」

「なんで僕がそんなことしなきゃいけないんだ」


 霧藤はスーツケースを自分の前に引き寄せると、後ろを振り返った。


「早く入っておいで」


 霧藤に言われて、次に店に入ってきたのは灯だった。同じく大きな旅行用のボストンバッグを両手で持っている。重みにふらつき、灯はバッグを足元に置いた。

 鈴は腕を組み、小さく首を傾げて二人を見る。


「……ハネムーンか」

「なかなか面白いことを言うね」


 別に面白くもなさそうに霧藤は言って、二階の様子を気にするように、天井へと目をやった。


「大酉さんは上かな」

「そうらしい」

「そうか」


 大酉を呼ぶためか、店の奥へと行こうとする霧藤を、鈴は腕を掴み止めた。


「待て、いったい何なんだ。今日は何をしに来た」


 そして、鈴は灯へと目をやる。今日はずいぶんと大人しく、灯は鈴と目が合うと気まずそうにうつむく。

 霧藤は鈴の手を解くと言った。


「今日から灯君を蜃気楼ここで預かってもらうことにした」


 鈴の目が驚きに見開かれる。次に眉間に深い皺が刻まれた。


「何を馬鹿なことを言ってるんだ」

「馬鹿なことじゃない。彼女の主治医として、蜃気楼の環境は彼女の治療に適していると僕が判断した」

「はあ?」


 間の抜けた言葉と不機嫌な調子で、鈴が訊き返す。


「灯君には今日から、蜃気楼に居候しながら不眠症の改善に取り組んでもらう」

「いつから蜃気楼はリハビリ施設になったんだ」


 感情を必死に抑えているような、鈴の低い声。


「何を言っているんだ鈴。鈴だって同じ立場じゃないか。まさか忘れたわけじゃないだろ。僕の責任と権限で君はここで療養している身だってことを。むしろ鈴は今すぐにでも、病院へ戻った方が本当はいいんじゃないかと思うくらいなんだけどね」


 霧藤の言葉に、鈴が苦い顔で霧藤を睨む。


「親はなんて言ってるんだ」

「灯君のご両親には、僕から説明させてもらったよ。お二人とも彼女の治療に協力的で、快く彼女の蜃気楼での療養に承諾してくれたよ」


 もともと一人暮らしをしたいなどと言っていたこともあり、灯の両親は灯が家を出ることに対して、何の抵抗もないようだった。むしろ、どこかホッとしているような印象さえ、灯は感じた。

 名目も灯のためを思って治療に専念させる物ということで、世間体も悪くないのだろう。すんなりと話は進んだ。母が近所の人に、自分のことを少し体が弱くて……などと話していたことがあるのを灯は知っている。

 加えて霧藤の話し方は上手く、両親はほぼ霧藤の言われるがままに承諾書にサインをしていた。

 

「お前、いったい何を考えてる」


 鈴の刺すような視線も、霧藤は余裕で受け流し、微笑しながら答える。


「僕はいつだって鈴のためを考えてるよ」


 鈴はそれ以上霧藤に問いかけるのを止め、座敷部屋へと戻ると、苛ついたように自分で茶を入れる。

 そこに二階から大酉が下りて来た。


「あ、すみません。部屋を片付けていたので」


 大酉はこの件を了承済みだということに、鈴が少し拗ねたような顔をするのを見て、大酉が困ったように視線を落とす。

 そんな大酉に霧藤は笑顔を向ける。


「ご苦労様です、大酉さん。すみませんが、これから宜しくお願いします」

「いえ」

「鈴一人でも大変でしょうけど」

「いえ、私は本当に……」

「ほら、灯君も二人に挨拶くらいしたらどうだい。これから一応、同じ屋根の下で暮らすんだから」


 灯はまず大酉にペコリと頭を下げた。大酉も小さく会釈を返す。次に灯は座敷部屋の鈴を覗き込んだ。


「あの……」


 鈴は灯の方を見もせずに、茶を飲んでいる。


「あのっ。これから宜しくお願いします、鈴様!」


 灯の言葉に鈴が盛大に茶を吹いた。


「私でお手伝いできることがあれば、なんでもしますから」

「……今、なんて」


 今までと違い丁寧な物言いの灯を、口元を手で拭いながら、怪訝な表情で鈴は見た。


「お手伝いできることが……」

「その前」

「宜しくお願いします?」

「――の後だっ」


 語尾を荒げる鈴に、少し考えるように首を傾ける灯。


「……鈴様?」

「それだ。なんだ、それは」

「何か可笑しいですか?」


 逆に聞き返した灯に、鈴はポカンと口を開けて何か言いたそうにしていたが、やがて脱力したように机に伏せた。


「もういい。なんでも……。好きにすればいい……もう……」


 語尾がだんだん小さくなり、鈴が動かなくなる。後は小さな息遣いしか聞えてこなくなった。


「さて、うるさいのが寝ているうちに荷物を運んでしまおうか」


 霧藤がスーツケースを押して二階へと向かう。

 鈴は寝てしまったのか。灯はボストンバッグを抱えて鈴を見た。


 あの眠りが欲しい。

 眠りが貰えるなら、多少のことなら我慢もするし、努力が必要だというならそれもしよう。


 こうして、灯の蜃気楼での生活が始まったのである。



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