第八章・2
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「……どうしたの? 『眠り病』?」
灯は訊ねた。
灯は鈴が『落ちる』瞬間をまだ見た事がなかった。これが鈴の眠りへの落ち方なのだろうか。
「いや。ナルコレプシー、つまり『眠り病』には、カタプレキシーという脱力発作を伴う患者も多くてね。激しく感情が昂ぶると、全身の筋肉の緊張が突然失われる。鈴はこのまま眠りに入ってしまうことがほとんどだけど」
霧藤は鈴を見下ろしたまま言った。
それを知っていて、鈴をあんなに怒らせるようなことを言ったのか。
「灯君、今、この状態からでも、眠りを取ることはできるのかな」
それは質問ではなかった。今ここで試してみろという命令だ。
灯は淡々とした霧藤の声に、小さな寒気を感じ、畳の上に寝かされた鈴の傍らに、怪我をした膝を庇いながら座る。
『触られんの嫌いなんだ。特に寝てるとき』
鈴の言葉を思い出し一瞬ためらうが、灯は鈴の力の抜けた手に、自分の手を重ねた。以前と同じように力を込めてみるが、灯に眠りは訪れない。手を放し、今度は額に触れてみた。鈴のサラサラとした前髪が、灯の手をくすぐる。
「ダメみたい」
しばらくして、灯は鈴から離れた。
「すでに眠ってしまっている相手からは取れないのか。……面白いね」
言葉と裏腹に霧藤の顔は無表情で、それが少し怖かった。
「私とこの子を会わせる気は、なかったんじゃなかったの?」
こうして寝ている鈴を見ると、さらに幼い。三十歳なんてとても信じられない。
「別に君は僕に教えられて、鈴に会ったわけじゃないだろ。君が蜃気楼に来たのは、本当に偶然で、僕には何の責任もない。そして鈴は見ての通りの引きこもりだけど、君の方は、ほおっておくと、やっかいなことになりそうだ」
鈴に引っ張られて歪んだネクタイを直しながら、霧藤は言う。
「そもそも、なんで鈴がそこまで灯君を拒むのか、分からない」
その理由なら灯は知っている。それが本当の理由かどうかは定かではないが。
「夢を……自分の見ている夢を、私が見るかもしれないからって」
「夢? どんな」
霧藤の目が探るように灯を見る。何が霧藤の興味を惹いたのか。そんなに夢というものは重要なのか。
「悪夢。そう言ってた。自分の見る夢は、いつも絶対に悪夢だって。……知らなかったの?」
「鈴は自分の見る夢の内容を、僕に教えてはくれないからね」
霧藤は自嘲気味に少し笑った。医者と患者なのに、まったく信頼関係がなさそうだが、それでいいのだろうか。まあ、灯も霧藤を信頼しているかというと、していないのが正直なところだけれど。
「君は夢は見なかったって言ってたね。つまり、純粋に眠りだけを取っているということか」
「……医者の癖に眠りを取るなんてこと信じるの」
「あれ、信じない方がいいのかな」
この男の、こういうところが信用できないのだ。
「僕は柔軟な思考回路の持ち主でね。それに、すでに特殊な能力の持ち主なら、君以外にも知っている」
キョトンとする灯に、霧藤は鈴を見た。
目を覚ます様子はなく、大酉が心配そうな顔で傍らに付き添っている。
「鈴だよ。鈴は眠っている人間に触れる事で、その人の夢の中に入ることが出来る」
「夢に……入る?」
「これを僕は『夢ワタリ』と呼んでいる」
『夢ワタリ』
そんなことが、本当に可能なのだろうか。しかし、灯の能力も普通なら考えられないことだ。
いや、自分は眠らないという時点で、すでに普通とは違うのだった。
「灯君は眠りを取ることができる。そして、それはたぶん、鈴にとっても重要なことだ」
独り言のように呟いた霧藤は、何かを思いついたように、
「僕が少し手を貸そうじゃないか」
そう言って、灯に向かってニッコリと微笑んだ。
その笑顔は、この男のことを何も知らない女なら、きっと心惹かれるのだろうと思われたが、今の灯には、霧藤のその笑顔の裏に、何かあるように思えてならない。
「灯君は、せいぜい鈴に嫌われないようにするんだね。ああ、鈴は礼儀正しい女の子が好みらしい」
「何よ、それ」
「本当に欲しい物は、努力しないと手に入らないんだよ。その努力ができないなら、さっさと、諦めた方がいい」
霧藤はその笑顔を、今度は鈴の傍に座ったままの大酉に向けた。
「大酉さんも、ご協力お願いしますよ」