第七章・1
第七章
―1―
「灯、どうしたの、顔色悪いよ」
昼休みも残りわずかという時間、机に頬杖をついて、ぼんやりと校庭を見ていた灯に、友人が心配そうに言った。
「うん、ちょっと……寝不足」
「えー、平気? 保健室で寝て来たら。灯なら、たまにはサボっても大丈夫だよ」
何の根拠があるのか、そんなことを言う友人に、灯は席を立った。
「じゃあ、そうする」
「先生には言っとくねー」
どうせ眠れはしないのだけど。
廊下を保健室に向かって歩いていると、向こうからロイヤルブルーのネクタイをした男子が、何人か群れて、笑い声を上げながら歩いてくるのに出くわす。一学年上の先輩だ。
灯はその中心にいた一人と目が合った。
学校内では人気者の、あのバスケ部『佐藤先輩』だ。
あれっきり、灯に連絡してはこなかった。もちろん灯の方からは、連絡するような用事は何もない。
灯は一度合った目を逸らすと、ぶつからないように廊下の端により、そのまま、その男子グループをやりすごし保健室へと向かう。
すると突然、腕を後ろから少し乱暴に引っ張られ、振り返る。
そこには、カッコイイと評判の顔を不愉快そうに歪めた佐藤がいた。
他の男子は少し離れたところで、相変わらず何かを笑いながら、佐藤を待っている。
「痛いんだけど」
「放課後、話がある。体育倉庫に来て」
一方的にそう言うと、佐藤は仲間のところへ走って行ってしまった。
灯はその日の午後をほとんど保健室で過ごした。
白いベッドのシーツはゴワゴワと固く、薬品臭い空気に、これでは例え灯が眠れない体質ではなかったとしても、とても眠れないのではないかと思った。
昨日の眠りを思い出す。
気持ちが安らぐ暖かで穏やかで心地いい、あの眠り。
もう一度眠りたい。
もう一度。
まるで薬をやったみたいだなどと、鈴に言ったが、これではまるで禁断症状だ。
それでもやはり思ってしまう。
もう一度、あの眠りを手に入れたいと。
放課後、灯は体育倉庫に向かった。佐藤に会うためだ。灯の方は何の話もないのだが、ほおっておくと、面倒なことになりそうな気がする。
倉庫の扉が開いている。中にいるのだろうか。
灯は中へ入ろうとして、声が聞こえてくるのに気づき、外から様子を伺った。
「悪いけど、俺、今、彼女いるから」
「……わかりました」
ひどく沈んだ声とともに、一人の女子が中から出てくる。小柄で、ショートの髪を耳の下で二つに結んだ、とても大人しそうな子だ。悪くいうと地味となるが。
女子は灯と目が合うと、顔を赤くして、逃げるように行ってしまった。
「本当にモテるのね、『佐藤先輩』は」
言いながら灯が中に入ると、佐藤は顔を顰めた。
「なんだ。タイミング悪いな」
「どうしてフッたの」
「どうしてって、俺の彼女は君だろ」
言われた言葉に、キョトンとする。
「なんだ。別れ話かと思ってた」
「……別れたいのかよ」
「そもそも付き合ってた?」
「俺の何が嫌なんだよ」
「別に。じゃあ、あなたは私の何が良かったの? さっきの子じゃ何がいけないの」
「だって、見ただろ? 勘弁してくれよ」
溜息交じりに佐藤は言って、頭を掻いた。
分からない。あの子と自分を比べて、自分じゃなきゃいけない理由など、何もないじゃないか。
頭がいい子なら他にもいる。
顔がいい子なら他にもいる。
恋愛なんて、そんな理屈っぽいことではないのかもしれないが、灯にはそれが欲しかった。
他とは違う自分の、自分でなければいけない理由が。
「それより、この前どうしたんだよ。…………よくなかった?」
いちいち思い出したくもなかったことを、思い起こさせる言葉に、つい顔が歪む。
「ちょっと気分が悪くなっただけ」
「じゃあさ、今度はうちに来なよ。今度、親が出かけていない日があってさ」
下心丸出しで誘うこの男をみても、女子はこいつをカッコイイと思うのだろうか。
それとも、こいつを好きで彼女になった子なら、こんな台詞でも嬉しいと思うのかもしれない。
そうだ。
「ねえ」
突然、灯は佐藤の手を取った。
「え、何」
戸惑いながらも佐藤は、すぐに灯に握られた手を握り返し、器用に指を絡めてきた。
この男からでも、眠りが取れるかもしれない。
そう、別に誰からでもいいじゃないか。
眠りが手に入るなら。
もう一度眠ることができるなら。
佐藤は灯の手を掴んだまま、灯を壁に押し付けると、体を寄せて来た。
やりづらい。
灯は佐藤の手を握ることに集中すると、握った手に力を込めた。