第五章・1
第五章
―1―
次の日、灯の体には特にいつもと変わったところは見られなかった。つまり、不眠が治ったわけではなかったという意味だ。
家に帰ってからベッドに入ってみても、やはり眠りが訪れることはなく、学校でも、いつものように退屈な授業中、他の子が眠気と戦っている様子を、ただ見ていただけだった。
学校から帰るために乗ったバスの中、隣に座った中年の男が、コクコクと船をこぎながら灯に寄りかかってきた。
気持ちが悪くて何度押し返しても、すぐにまた灯の肩に体重を預けてくる。
いい加減にして欲しい。
自分も昨日、眠っている間、こんな風にみっともない姿をしていたのだろうか。
よく覚えていないのだ。
覚えているのは『りん』という、あの少年の手の感触。ヒンヤリと冷たく華奢な手だった。
それと、目覚めた後の少し気だるさもある中の爽快感。
もう一度、眠りたい。
今度はちゃんと、眠りを感じて、味わいたい。
灯は肩に寄りかかってきている男を乱暴に押しのけると、驚いて目を覚ました男を睨んでから、家へと向かうバスを途中で降りた。
◆◆◆◆◆◆
「今日は診察の日じゃないはずだけど」
灯が病院の受付で、霧藤を呼んで欲しいと頼んでいると、そこへ丁度、霧藤本人が現れた。
「まあ、来るかなぁとは、思っていたんだけどね」
言いながら、霧藤は手で部屋へと行くように促す。
「それで、あれからどうだい、体の調子は」
「いつも通りよ」
「つまり、眠れないままということか」
カウンセリングルームに入ると、霧藤は先にソファへと座る。
灯はつい、隣の部屋へと続くあのドアを見た。
「『彼』は今日はいないよ」
霧藤が灯の視線の先に、自分も一度目をやり言う。
「分かってるわよ」
鞄をソファに投げ出し、灯は霧藤の正面に座った。
「体が眠りという物を覚えたなら、自然と眠れるようになるかもと思ったんだけど」
「生まれてから一度も眠ったことがなかったのに、四時間やそこいらで、体が眠りを覚えられるはずないでしょ」
「それもそうだね」
頬杖をつきながら灯の話を聞く霧藤は、なんだか楽しそうで、灯を苛々させる。
「ところで昨日、君はどうやって眠りを手に入れたんだい」
「どうやってって……」
「君が昨日会った、あの少年は、君に眠りを取られたと言っていた」
「だって、あの子がくれるって言ったから……」
「つまり、本当に彼の眠りを自分の物にしたというんだね」
分からない、そんなの。
言葉にしなくとも、その表情で、灯の困惑を感じ取ったのか、霧藤は話を続ける。
「あの少年が『眠り病』だということは、灯君も知っているんだよね」
灯は頷いた。
「確かに君が眠っている間、彼の『眠り病』は起こらなかった」
「それじゃあ」
「もしかしたら、そういうこともあるのかもしれない」
本当に信じているのか、ずいぶんと軽い口調だ。
「あの子……『りん』君は? どうしてるの? あの子にもう一度会わせて」
そうすれば、何か分かるかもしれない。もう一度、眠れるかもしれない。
「残念だけど、それはできないな」
「なんでよ」
「彼の方がそれを望んでいないからだよ」
「……なんで」
虚しく同じ質問を繰り返す。
だって、あの少年は眠りたくないのではなかったのか。灯が眠りを取ることができるなら、むしろそれを望むのではないのか。
「おかしいな。どうして、そんなにこだわるんだい。君は眠りたくなんてなかったんじゃなかったかな」
分かっているくせに。
灯がもう一度眠りを欲していることを。
「もういいわよ。あの子がどこにいるか教えて。自分で会いに行くわ」
「それこそ、教えられない。僕は医者で、君も彼も僕の患者だ。僕には守秘義務がある。しかも、ここは精神科だよ? 患者の個人的な要求には答えられない。前に僕はそういったトラブルに巻き込まれたこともあってね」
肩をすくめてみせる霧藤。
なんだか変だ。
霧藤の言っていることは、尤もな話のようにも思えるが、灯の不眠が治る可能性があるかもしれないのに、それを試そうとしないなんて。
なぜなのか。
あの『りん』という少年が望んでいないから?
それだけ?
しかし、それはひどく重要なことのように思えた。
霧藤が灯よりも、あの少年の方の意思を尊重しているのは確かだ。
「あの子、あんたの何なの」
灯の言葉に霧藤の目が細められる。
「余計なことを考える必要はないよ。君は自分のことだけ考えていればいい。いつものように」
最後に意図的に加えられた言葉には、いつも自分のことしか考えていないくせに、といった灯を非難するような調子が感じられる。
「安定剤、睡眠導入剤はもう試したんだよね。ハルシオン、アモバンも効果なしか」
霧藤はカルテを見ながら、今更そんなことを話しだす。
あの少年について、もう話すつもりは霧藤にないらしい。
灯はソファを立ち、ドアに向かった。
「十三年前の一月二十日」
唐突に霧藤の口から出てきた日付に、ドアを開けた灯は霧藤を振り返る。
「彼のことが気になるなら、調べてみるといい」