序章
序章
カラララン。
店のドアベルが鳴る音に店主は厨房から出た。
店主は和服に前掛け姿、癖のある髪を小さく後ろでまとめた丸眼鏡が似合う四十前後の男。名前を大酉 圭介といった。
「いらっしゃい。……あれ」
入って来た客に大酉は首を傾げる。
「こんにちは」
客、常磐 要は、いつものようにペコリと大酉に軽く頭を下げた。
「どうしたの、今日は」
大酉がそう言ったのは、ある意味、常連となっている常磐の恰好が、いつものくたびれたスーツとネクタイ姿ではなく、ラフなシャツとトレーナーにジーパンという服装だったからだ。
「今日は俺、休みなんです」
常磐は言った。
チンピラのような左頬骨上に傷のある不良顔。その顔に似合わず、常磐は霞野署刑事課に勤める刑事なのだ。
「すみません、朝日奈さんは……」
常磐は遠慮がちに大酉に尋ねた。
蜃気楼という変わった名前のこの店は、和菓子とお茶がおいしい和風の喫茶店になっているのだが、常磐の目的は大抵、この店にいる朝日奈 鈴という人物にあった。
そして、この鈴という人物、『眠り病』の持ち主で、店のドアに掛けられた札が『起床中』になっていないと会えないという、少々やっかいな人物なのである。
「札は『就寝中』ですが、起きてますよ」
「やっぱり」
最近、眠っていなくても鈴の気分次第で札の文字が変わることを知った常磐は、それを聞いて鈴のいる座敷部屋へと向かった。
「あ、でも……」
大酉が止めようとするより早く、常磐は座敷部屋の戸を開けていた。
「お邪魔します!」
座敷部屋の中にいた中学生ほどの少年が、黒い瞳を細めてチラリと興味なさそうに一度、常磐に視線をやると、また読んでいた本に視線を戻してしまった。
「あ……お、お邪魔……でしたかね……」
常磐が戸惑いながらそう言ったのは、鈴の膝に一人の少女が頭を乗せて眠っていたからだ。
「邪魔ですね」
返された鈴の言葉に、そんなにはっきりと言わなくてもいいのにと思う。
「今日は何の御用ですか。そんな格好して」
「今日は休みなんです。それに、朝日奈さんに頼まれたチケットを持って来たんですよ」
少し憮然として、常磐は鈴にそのチケットを渡すと、鈴は眉を顰めてチケットを見た。
「……俺が頼んだ?」
「何か、俺にできることはないか訊いたら、じゃあ、リッキーのライブが見てみたいって、言ってたじゃないですか」
「ああ、そんなこと言いましたね」
常磐は以前ある事件で鈴の世話になり、その際、鈴を危険な目に合わせたりもしたが、常磐にはどうしても鈴の持つ特別な力が必要だった。
これからも鈴の力を借りることになるかもしれない。今までのお礼も兼ねて、何か自分にできることがあれば言ってくれと言った常磐に、鈴は今、人気絶頂のお笑い芸人の生ライブを見てみたいと言ったのだ。
本当はそれより前に鈴が別の条件を提示してくれたのだが、それを受けることは常磐にはできなかった。
「へえ。鈴さん、そんなこと常磐君に頼んだんですか」
大酉がお茶を運んできて、常磐は小さく会釈した。
「うん。まさか取れるとは思わなかったから」
鈴の言葉にがっかりする。
「なので、朝日奈さん。行きましょう」
「……あなたも行くんですか」
「もちろん。お供させていただきます。朝日奈さんに何かあったらいけませんから」
鈴はそれを聞いて、だるそうにチケットを常磐に返した。
「申し訳ありませんが行けません」
「はい? な、なんでですか」
「俺は今、灯の枕なんで」
鈴の言葉に、常磐は鈴の膝に頭を乗せている少女を見た。
長い黒髪の美しい少女、日暮 灯の肩は規則正しく、小さな上下を繰り返している。
「でも、じゃあ、朝日奈さんはしばらく起きていられるんですよね」
鈴と同じく、灯には特別な力がある。
鈴から眠りを奪う力だ。その力で眠りを取られると、『眠り病』の鈴でも眠ることはない。
「あなたは俺に、寝ている灯を置いて出掛けろと言うんですか」
鈴の声が険しくなった。
「誰か他の方と行かれたらいいじゃないですか」
「……そんな人がいたら、すぐにそうします」
常磐がふてくされていると、店のドアベルが鳴った。
「鈴、起きてるか」
聞えた声に、常磐の体がなぜか固くなる。
「ああ、常磐さん。こんにちは」
座敷部屋の戸の前、爽やかな笑顔で現れたのは霧藤 愁成。
鈴の主治医の精神科医。
いつも身なり正しく、見るからに頭の良さそうな好青年なのだが、常磐は霧藤が少し苦手だ。
「何の用だ」
鈴の声が険しさを増した。鈴と霧藤のやり取りは、いつも不穏な空気をはらんでいる。
「今、病院に月島准教授がみえている。話をする時間を取っていただけそうだ。鈴も一緒に……」
言いかけた霧藤は灯が鈴の膝で眠っていることに気がついて、語尾を溜息に変えた。
鈴が動かないということをすでに察したようだ。
「灯君のことは大酉さんに頼んで、病院へ行くんだ」
「愁成が一人で会えばいいだろう。俺はそんな奴のことは知らない」
「月島准教授は眠りと脳研究の権威なんだ。なかなか話を伺える機会はないんだぞ?」
「ああ、そう」
どんどん素っ気無くなっていく鈴の返事に、霧藤は呆れたように腕を組むと、座敷の上がり口に座り込んだ。
「ああ、そうだ。常磐さん、なんなら愁成と一緒に行ったらどうですか」
「は、はい?!」
唐突に鈴に言われて驚く。
「何の話ですか」
霧藤が常磐を見る。
「今、大人気のお笑い芸人のライブチケットが手に入ったそうで。愁成も精神科医なら、お笑いの一つや二つ、学んでおいたほうがいいんじゃないか」
からかうような笑みで霧藤を見る鈴に、冷めた目で返す霧藤。
「僕に月島准教授よりも、お笑い芸人に会いに行けというのかい」
……というか、できれば霧藤とは行きたくない。常磐は思った。
並んで歩くのも気が引ける。
「でも、愁成とじゃ面白いものも、面白くなくなるか」
「いえ、そんなことは」
「失礼だな。僕だって、笑いというものの精神、肉体に及ぼす影響のことは、よく分かっている」
「ほら、つまらない」
「あ、朝日奈さんっ」
「鈴こそ、そうやって人をけなすような笑いしか、好まないんじゃないのか」
「アメリカンジョークはそれが主流だ」
「だいたい鈴は……」
ヒートアップする鈴たちのやり取り。
それすらまるで気にならない様子で、鈴の膝の上、灯はすやすやと幸せそうに眠り続けていた。