「同居人」
高校を卒業して上京したあと、数年ぶりに地元へ戻った私は、弟の借りている部屋に住むことにした。
実家には帰りたくなかった。ただそれだけの理由だった。
引っ越し業者は4人いたはずなのに、部屋に入ってきたのは2人だけだった。
共用廊下に立ったままの2人は、目を合わせずこう言った。
「この部屋には入りたくない」
そのときは何を言っているのかわからなかった。
駅から徒歩5分で家賃3万円。安さに心を奪われて、それ以上は考えなかった。
けれど、夜になってすぐにおかしなことが起きた。
ユニットバスで用を足していると、首筋に冷たいものが垂れてきた。
点検口は少し開いていて、そこから得体の知れない茶色い液体が落ちてきていた。
洗濯機を回すとゴポゴポという音とともに、防水パンの中に茶色い水と長い髪の毛が溜まった。
洗面所の排水口にも、掃除しても掃除しても長い髪の毛が絡みつく。
弟にちゃんと掃除しろと言ったが、弟も「何度も掃除してるし、女も連れ込んでない」と言った。
また、間取りの中央に変な部屋がある。
壁や天井、襖は和式っぽいのに、床だけフローリングになっており、天井はちょっと黒ずんでいる。
その変な部屋の襖は二段になっていて、上には布団、下の奥の壁には大きな凹みがあった。
玄関ドアの下部にも大きな凹みがあった。
夜になると、玄関の向こうに気配を感じたり、足音が私たちの部屋の前で止まった。
弟と私で同じタイミングで後ろを振り向き、目を合わせる。
ドアスコープを覗いても誰もいない。ただ薄暗く、じめっとした空気が見えるだけだった。
母が一度だけ遊びに来たとき、ソファに小さく身を縮めて座っていた。
母もときおり、背後の玄関を何度も振り返っていた。
その姿を、今でもよく覚えている。
ある晩、私は晩ご飯を作る当番だった。
私はカレーを作って弟に渡した。普段は温厚な弟が「こんなもんいらねーよ」と怒鳴った。
私も普段は温厚なのに、感情を抑えきれず皿ごと弟に投げつけた。
弟は怒って部屋を飛び出し、私は一人きりでしばらく呆然としていた。
なんであんなことをしたのか、自分でもわからなかった。
しばらくして帰ってきた弟も「ごめん」と謝った。
後で二人で話したとき、「あの時、誰かに乗っ取られてたような気がした」と言い合った。
私は怖くなり、両親に頭を下げて実家に戻った。
母はホッとしたように言った。「よくあの部屋に住んでられたね」
少しして弟が職場に来なくなったと連絡があった。
私と母と母の友達であの部屋を訪ねると、ゴミだらけの部屋の奥、閉まった襖の向こうで、青ざめた顔の弟が体育座りをして一点を見つめていた。
名前を呼ぶと弟ははっと顔を上げたが、自分がなぜそこにいたのか覚えていなかった。
その後、父が一人で部屋を片付け、その部屋は解約した。
大家さんに聞くと、その部屋の前の住人は玄関で頭を打って亡くなった老人。
その前はカップルが二人で襖の下段で練炭自殺。
さらにその前は、ユニットバスで女性が亡くなったという。
あまりにも色々と重なりすぎて、頭の中が白く霞んでしまった。
あの部屋には、確かに誰かがいた。
私と弟が感じていた「誰か」は、ずっとそこにいて、ただ黙って私たちを見ていたのかもしれない。
今でもときどき、その時の話を家族でする。
その話をすると決まって、みんなの腕に鳥肌が立つ。
その夜、私は必ず金縛りに遭う。
私と母は、毛穴の奥からひしひしと感じる強烈な気配に寝付けない。
必ず玄関に盛り塩をするけれど、朝、出勤前にその盛り塩を見ると、いつも黒ずんでいる。
この物語はノンフィクションです。
私の実体験を書きました。