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それからというもの、カロは出口のない思考の迷路をさまよう日々でした。
とてもではありませんが、翼が無くなるというのは考えただけでも耐えられません。それこそカロにとっての翼とは、生まれた時からずっと自身の価値として絶対的なものであり、翼があって初めてカロはカロなのです。翼が無いカロなど、ただの人間どころか、何者でもありはしなかったのです。
では、天上界にて、御使いとなり暮らすことがカロの望みでしょうか。
いいえそれもまた違いました。なぜかと言えば、カロが今日まで生きてこれたのは、デクとマルムという二人の親友がいたからに他ならないからです。二人の存在がなければ、カロはとっくの昔に高いところから飛び降り死んでいたか、あるいは翼をもぎとられてカロではなくなっていたことでしょう。しかしそれはデクとマルムにとって見ても同じことで、カロと一緒にいたからこそ、二人は今日まで生きてこられたのでした。それを三人は言葉にこそしていませんが、互いが互いに分かっていたのです。だからこそ、カロは二人を置いて生きていくなど、選べるはずもありませんでした。
悩み、迷い、時には思考を放棄していく日々は、無情にも、結論を運んでくることなく過ぎ去っていきました。カロはどちらの選択、あるいはまた別な選択も決断できないまま、成人の儀はいよいよ明日に迫っていました。
「おはよう。今日も早いね」
カロはいつもの通り、成人の儀の訓練場所に向かい、先に着いて準備運動をしている二人に声をかけました。二人は「おう」「お、おはよう」これもまたいつもの通りに返事をします。
「いよいよ明日だね」
高さ十メートルほどの壁を登ったあと、座って休憩しながらカロが言いました。
「この分なら、成人の儀の崖だってきっと登れるよ」
努めて明るくカロは言いましたが、デクとマルムの表情はそれに比して暗い様子です。「どうしたのさ」カロの表情も少し、暗くなりました。
「できるわけないだろ」とデク。
「カ、カロだけなら、登れるだろうね……」とマルム。
「何を言い出すんだ二人とも。この壁だって登れているじゃないか」
「だからなんだって話だよ。実際はこれよりもずっと高いじゃないか」
「確かにこれより高いけれど、でも登り方は同じだろう。それならきっと」
「体力がもたないって話だよ。現状じゃこの壁を登りきるので、もしくは良くてあと数メートルで精一杯さ。それとも何か、お前は崖にへばりついて一晩過ごせって言うのか?」
「デク。カ、カロは、そそそんなこと言ってないよ」
「分かってるよ。でも、俺もお前も一息では登れないって事実は変わらない」
「うん、そうだね」
「だからなんで二人して諦めているのさ! やってみなければ分からないだろ。現に、君たちはこうして数カ月足らずのうちにこの壁を登れるまでになったのだし、まだ成人の儀の崖を登ったことだってないじゃないか。やる前から諦めてどうするのさ!」
カロは勢い余って立ち上がり、声を荒げました。なぜこんなにも怒っているのか、カロ自身にもよく分かりませんでしたが、とにかく、二人が挑戦する前から諦めているということが、我慢ならなかったのです。
デクとマルムはカロの余裕のない様子を見て、次にお互いの顔を見合わせました。そこで二人は、何かを決心したような顔つきに変わりました。
「カロ。君の言い分はもっともだ。やってみなければ分からないということも、世の中にはたくさんあるだろう。だけど、やる前から分かっていることだってある、ということもまた理解できるだろう」
「僕だってそれくらいは分かっているつもりだよ。けれど、君たちならできると信じているんだ。期待しているんだよ」
「カ、カロ。そ、それを君が言うのかい。き、君に期待されているからって、で、できるかどうかは別な問題だって、君が、い、一番よく、知っているじゃないか」
「それにな。俺やマルムは、カロ、お前じゃないんだ。俺たちは飛べないんだ。登っている最中に落ちる可能性の方が高いんだ。落ちて、そのまま死んでしまう可能性もな」
「そ、そうだよ。僕たちは飛べないんだよ」
「だから諦めるって言うのかい」
「じゃあお前は、俺たちに死ねって言うのか」
「落ちそうになったら僕が助ければいいだけだろ!」
「……、それは、死んでいることと何が違うんだい。君に助けられて、生きながらえて、それでこの先、一生、君に助けてもらい続ける人生なんて、ぼ、僕はそれを、い、生きているとは思えない。そんなの、し、死んでしまうことよりもずっと、ずっと残酷なことだよ」
波も波紋の一つも立たない湖面のような静けさが、三人を包み込みました。「実はな」端を切ったのはデクでした。
「俺たち、前々から考えていたことがあるんだ」
「なんだい改まって」
「む、村を出ていこうかなって」
「そんな、どうして」
「カロなら分かるだろ。俺とマルムは村じゃ役立たずのつまはじき者だ。成人の儀を達成できないとなればなおのことな。それならいっそ、村から出て、二人で力を合わせて生きていく方がいいんじゃないかって思ったんだ」
「僕を置いていくのかい。置いていかれた僕はどうすればいいんだい」
「き、君にはもう、立派な翼があるじゃないか。ぼ、僕らとはもう、違うんだよ」
羽根がひとひら落ちました。涙はとめどなくこぼれていきます。カロにはもう、どうしたらいいのか分からなくなってしまいました。
「まあでも、うん、気が変わった。成人の儀には挑戦しようじゃないか」
「なんでまた」絞り出すように震えた声でカロが尋ねました。
「その方が格好がつくってもんだ。マルム、どうする?」
「ぼ、ぼぼ、僕もやってみるよ。そ、その方がずっといい」
「そうと決まれば今日はもう休もう。疲れて登れませんでしたじゃお笑いものだ」
二人は立ち上がって帰ろうとしたとき、「ごめん」カロは翼を広げてどこかへと飛び立ってしまいました。
それを見たデクとマルムはそのまま帰っていきました。そこに、涙の跡を残しながら。