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その日の夜のことです。
初日の訓練とあってか、または飛ぶことに慣れていないためか、カロは大変疲れた様子で家に帰ると、そのまま眠ってしまいました。起きた時にはすでに、世界が宵の闇の中へとどっぷり沈みきっていました。
寝ぼけ眼をこすったカロは、そういえば、とはっとして天使のことを思い出し、窓の方へと駆け寄りました。
窓から顔を出したカロは、霧のような雲に隔てられた月と星が、うすぼんやりと光を放っているのを見て、今夜は天使は来ないかもしれない、そう思ってまた寝ようと布団にもぐりました。
すると、バッサバッサとまた聞いたことのある音が外からして、カロは飛び起き、もう一度窓から顔を出しました。
「やあこんばんは。そろそろ起きる頃だと思ってね」
「こんばんは御使い様。僕は今日、あなたのおかげで飛べるようになりました」
カロは窓枠に手を付き「ありがとうございました」深々と頭を下げてお礼をしました。
「それはよかった。けれど君が飛べたのは君の努力の結果さ。私は何もしていないよ」
「そんなことはありません。あなたから勇気をもらったのですから」
「そうかい。それならありがたく受け取っておこう。お返しと言ってはなんだけれど、一つだけ。君の努力は君のもので結果はそれに準拠する。つまり、その責任を他者へ転嫁しようなどと考えたりしてはいけないから、カロ、気を付けたまえよ」
「はい。気を付けます」
カロはまた頭を下げましたが、今度の話は難しくてよく分かっていませんでした。
「それでお昼の続きだけど、君に伝えなければならないことがあるんだ。聞いてくれるかな」
「はい、もちろんです」
「ではちょっと失礼するよ」
そう言うと、天使は窓からするりとカロの部屋に入ってきました。大きな翼はすっかり畳まれ、正面から見れば、普通の人となんら変わらないように見えるものですから、カロは不思議そうに見ていました。
「どうしたんだい、隠していた木の実が埋めた場所になかった時のリスのような顔をして」
「いえ、その、こう言っては失礼ですが、御使い様はあまり人とお姿が変わらないのだなと」
「それはそうさ。私だって元は人間なのだから」
「そうなんですか。ということは、御使い様というのはみな、元は人間なのでしょうか」
「いいや、これはとても珍しいことであるし、私から君に伝えなければならないことにも関わってくる話なんだ」
天使は「ちょっと話が長くなるから座らせてもらうよ」と言って床に腰を下ろしました。普段のカロならば、椅子を持ってきたり茣蓙を引いたりする気遣いをするものでしたが、この時ばかりは驚きと話の内容に気を取られて、すっかり忘れていました。
「私や私の仲間たち、天の使いのものはみな、普通ならば天上界と呼ばれる世界で生まれ、その世界で生きていくものなんだ。そして、現界と呼んでいるこの世界に生きとし生ける、万象の声を聞くために降りてきてはまた、天上界におわす我らが主様にその声を届ける役目を担っている。つまり、この現界に降りてこれる天の使いとはみな、翼を自由に扱い、この大いなる空を自在に駆けまわれなければならないんだ」
カロは心の内側に見る世界が、艶やかに色めき湧き立っては、頭の頂点から足のつま先までぎっしりと、興奮した万能感に満たされ、お伽噺に目を輝かせる幼子のように話の続きを待っています。
「私たち天の使いにはいくつかルールがあるわけなんだけど、とりわけて重要な一つがあってだね。それは、成人した天の使いは、現界の生き物たちに姿を見られてはいけないということなんだ」
「それはまたどうしてですか」
「うん。私たち天の使いは、主様の名代として現界に降りてきているというのは先に話をしたけれど、実は主様の姿は現界の生物に見られてはいけないということが本質でね。それというのも、世界の全ては主様の下に平等であり、一片でも偏りがあっては、世界そのものが崩れて死んでしまうからなんだ。また主様の姿が見えるということはつまり、個のあるいは種としての力を他の生物よりも大きくしてしまう。それはいずれ世界全土に影響が出て、結果的に現界を崩壊させることにつながってしまう。……そして、先に私たちは主様の名代と言ったのはね、私たちの姿を見ても結局は同じということなのさ」
「そ、それでは、僕に御使い様のお姿が見えているのは、大変なことなのではないでしょうか!」
カロは居ても立ってもいられず、あわあわと狼狽え始めました。天使は「落ち着きなさい、大丈夫だから」と言ってカロを宥め座らせました。
「君は大丈夫だよ。なんと言ったって君は私と同じように、何の因果か、現界で生まれ育った天の使いなのだから」
「そ、そうなのですね」
カロはほっと胸を撫でおろしましたが、天使の表情は夜に紛れているにしても、どこか暗いものがあり、取り払われたはずの不安が、再び心の周りをぐるりと囲んでしまったような気持になりました。「どうかしたのですか」カロが尋ねました。
「心配させてすまないね。ただ気を付けなければならないことがあるんだ。そしてそれこそ、私が今日、君に話をしなければならない本題なんだ」
ごくり、とカロは喉を鳴らしました。心臓は胸骨を突き破ってしまいそうなのに、静かに脈動しています。
「そもそも私たち天の使いは、主様の力によって現界のものたちに見えないようになっているんだけれど、君は人間でもあるから、君に見えるようにするためには、他の人間にも見えるようにならなければいけない。故に私は、君に私のことを誰にも言わないよう伝えたね。さっきも言ったように、姿を見られれば、現界の崩壊を招いてしまうのだけれども、実を言うとそれだけではないんだ。……もし、私の姿が見られたのだとしたら、私は翼を失い、ただの人に成ってしまう。さらにね、カロ。これは君も同様なんだ」
カロは可能な限り目を見開いて、開いた口が塞がりませんでした。けれど、その口からはどのような言葉も出てきませんでした。ただ沈黙だけが、夜の帳を真似て降りているのです。「で、でも、でもまだ僕の翼は消えていませんよ」ようやく、カロは擦れた声で絞り出すように言いました。
「君はまだ成人を果たしていないだろう。だから正式な天の使いというわけではないんだよ。そして正式な天の使いでなければ翼を失うことはないんだ。それというのは、主様の名代として認められていないからだ」
カロは心底ほっとして、自分の喉が日照りの続いた川底のように、カサカサとしていることに気が付きました。それほどまでに、カロにとって翼を失うということは、途方のない絶望に感じられたのでした。
「成人してしまったら、僕の翼は消えるのですか」
「消えてしまうだろう」
「成人とはいつですか。いつのことですか!」
「魂が生を受けたときから数えて十六年。つまり、君の場合は成人の儀の次の日だろう」
「そんなにすぐ……、翼を失わない方法はないのですか」
「もちろんあるとも。そして、それを選択してもらうためにここまで話をしたのだから」
「教えて下さい! 僕にとってこの翼は、僕そのものなのですから! 失うわけにはいかないのです」
「方法は一つだ。この現界から離れ天上界に行くこと、ただこの一つだけしかない」
「では、天上界に行ったとして、再び現界に、この世界に戻ってこられますか」
天使は首を横に振って、遠く、悲しそうな目をしました。
「不可能だ。天上界に行けば自然、君は主様のお力の恩恵を受けることになる。つまり、現界のものたちには、君の存在を認知することはほとんどの場合できなくなるわけさ。君がいくら現界に降り立ったところで、その存在を現界のものたちが知覚できないのなら、君はいないのも同然ということになる」
「ここには僕の親友がいるのです。僕一人だけが安寧のもと暮らしていくことなど、どうしてできましょうか。親友を置き去りにして、どうして僕が生きていけるでしょうか。この翼と同じくらい、彼らもまた、僕そのものなのです」
「分かっているよ。けれどその場合、君は翼を失い、人としてこの世界に生きることになる。どちらか一方だ。その選択はもう間もなくやってくるんだ。君は、君の一生を、選択しなければならない岐路に立っているんだ」
カロはこれ以上言葉を紡ぐことができそうにありませんでした。頭の中では翼と親友、この二つを天秤にかけ、どちらを選ぶべきかと、終わらない問答を繰り返すばかりです。
「では私はそろそろ失礼するよ。成人の儀の時にでもまた会いにくるから、それまでに決めておくことだ」
天使は入ってきた時と同じように窓枠に足をかけ、体の半分ほどは外へと飛び出していましたが、不意に、俯き悩み続けているカロを振り返りました。
「カロ、一つアドバイスをしよう。責任を他者に転嫁してはいけないよ。それが例え自分の命、自分の生きていく理由であってもだ。君の生は君だけの権利であり、君だけの責任であるべきなのだから」
それだけ言うと今度こそ、天使は翼をはためかせて夜空の闇へと溶け、消えていきました。
カロは「はい」とだけ返事をしましたが、天使の言った言葉の意味などは、分かったような分かっていないような気持であり、それよりもどちらを選択するかに気を取られていましたので、すぐにも忘れてしまったのでした。