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それからまたカロが成人をする少し前のことです。その日は、デクとマルムが訓練場所へ遅れてくるとのことでしたから、カロは一人で訓練場所へと向かいました。この頃になると、翼は広げた腕より少しだけ大きく成長していましたし、なにより、浮いて移動したり、多少なら上昇することも可能になっていたのです。しかしやはり、鳥や伝え聞く御使いのようには、飛ぶことはできず、相変わらず人目につかないところで練習をしていました。
カロは一通り練習をしたあと、座って休んでいました。空は雲一つないすがすがしい青空で、さわさわとそよぐ風は木々の葉を揺らし、まだ青い自然の匂いを運んできます。陽の光は陽気であたたかく、そっと頬を撫でるように優しかったものですから、カロはついつい眠くなってしまいました。ウトウトと舟をこぎだしたころ、不意に影が差して、風の向きが横から縦に、上から下へと変わりました。はっとしてカロは起きて立ち上がり、空を見上げます。そこには、自分と同じように、翼を生やして人の姿をした者が、ばっさばっさと翼をはためかせて降りてくるところでした。カロは瞬きも忘れて口を開けたまま、それが地面に降りてくるのを待ちました。
「やあはじめまして。私は天からの使い、君たちの言葉では御使いというやつだね」
天使はにこやかに笑いかけ、「よろしく、同胞よ」握手を求めてきました。
カロの頭の中は未だ混乱が渦を巻いていましたが、ひとまずは「はじめましてカロです」答えて握手に応じました。
「カロ、君を少し前から見ていたが中々どうして、努力家ですばらしいじゃないか」
「えっと、はあ、ありがとうございます」
「翼も順調に育っているし、体も健康そうだね。うん、これならもうすぐにでも飛べるようになるだろう」
ぺたぺたぐるぐる、天使はカロの周りを回って、翼や体を見たり触ったりしてからそう言いました。「ほんとうですか!」カロは大きな声でそう尋ねました。
「本当だとも。私は嘘なんて吐かないんだから」
「やった! これでみんなの願いを届けられるんだ」
「でも焦ってはいけないよ。怠けてもダメだ。君がこのまま心身ともに成長すれば、というわけなんだからね」
「はい。でも、それでもやっぱり、嬉しいんです」
カロは下を向いて、胸の前でぎゅっと服を握りしめながら、今にも泣き出してしまいそうな声で言いました。喉の奥からは、これまで飲み込んできた思いがせり上がってくるようでしたし、かと思えば全身に力がみなぎっていて、なぜだかカロは、自分がようやく生まれた気がしてなりませんでした。
「さあカロ、顔を上げて、飛び立つのはこれからが本番だよ」
「はい。頑張ります」
天使はニッコリ笑って、カロの頭を優しく撫でました。
「君に話さなければいけないことがあったんだけど、それはまた今度にしよう。そうだな、今夜また君に会いに行くよ。今は君、もうそろそろお友達がくるだろうから、いつも通りにしていなさい。間違っても、私のことを話してはならないからね」
「分かりました。誰にも言いません」
カロは力強く頷きます。「うん」と微笑んだ天使の表情は、まさしく天の使いのそれでした。
「それじゃあまた」
天使は翼を大きく広げて羽ばたくと、一瞬のうちにはるか高く、遠くの空へと飛んで見えなくなりました。
しばらくするとデクとマルムがやってきました。
デクはカロの姿を見て声をかけようと手を上げましたが、本人も気付かぬうちに下へと垂れ下がりました。なんとカロは、自由に空を飛んでいたのです。昨日までとは全く違う様子でしたので、デクもマルムも言葉を失い、踏み締められた下生えの雑草が二度と起き上がれなくなるほどに、二人は呆然と立ち止まって、縦横無尽に目の中を駆け回っているカロの姿を眺めていました。「おおーい二人とも」デクとマルムに気が付いたカロは、二人のもとまで文字通り飛んできました。
「来ていたのなら声をかけてくれればいいのに」
「あ、あまりにもすごくて、その、た、た、楽しそうだったから……」
「へへ、そんなに楽しそうだったかな」
「ああ、雛がはじめて飛べたときみたいに楽しそうだったよ。でもどうしたって急に」
「それが僕にもよく分からないんだ。突然、あんな風に飛べるようになったんだもの」
「なにはともあれおめでとうカロ。お前はすごいよ、ほんとうに。ほんとうに」
「た、たくさん練習していたもんね。おめでとうカロ」
「デク。マルム。二人ともありがとう」
カロは二人にぎゅっと抱きついて、その周りを翼が優しく包みこみました。カロは、先ほど天使に言われたときのような激しい感情の隆起ではなく、破裂寸前の風船にごくごく小さな穴を空けて、うすうすと中の空気を漏れ出すみたいに、静かな思いが胸の底から滲んでいることを感じていました。とてもあたたかな、優しい、幸福が血管を通って全身を巡り、涙となって、とめどなく溢れてくるのを止めることなどできませんでした。
「ありがとう。二人のおかげだよ。ありがとうありがとう」
「おいおい苦しいって」
「僕は何もしていないよ。カ、カロ自身の努力さ」
カロはぎゅっと抱きつき離れませんでしたので、しばらくの間、二人はされるがまま翼に抱かれていました。
ようやく落ち着いたカロは、恥ずかしそうに笑って「ごめん、ありがとう」と言って離れました。
カロと二人の間にざあっと風が吹き込みました。先ほどのあたたかな一体感は早くも流され、デクはそこに陽の光も届かないほど真っ暗な谷ができたように感じて身震いをし、ごくり、と唾を飲み込みました。
「そういえば、今日は村の集会じゃなかったかい。何か重要な話はあった?」
「ああそうだ、伝え忘れるところだった。俺たちはもうすぐ成人の年になるだろ。それでいつもの通り、新しい年になった日に、成人の儀を執り行うってことが決まったんだ」
「儀式用の大岩は使っちゃダメだけど、他のところなら練習に使っていいって話だったよ」
「そっかそっか、もうそんな時期なんだね。それならすぐにでも練習しよう」
カロは言葉にも態度にもやる気と自信がみなぎっている様子です。それとは対称的に、デクとマルムの表情は、初めて川を泳ぐ時の子犬のように優れていませんでした。「どうしたんだい二人とも」不思議そうにカロが尋ねました。
「俺じゃできっこないんだよ」
頭をわしゃわしゃと掻きながら、デクが答えます。
「ぼ、僕も、じ、じじ、自信がなくって。お、落ちたらどうしようって思うと恐ろしくって」
両の手を組んで小さく震えながら、マルムが答えます。
二人の言葉は本音であり、また言い分はもっともでした。それというのは、成人の儀が高さ四十メートルを超える、ほとんど垂直の、大岩と言う名の崖を命綱なしで登らなければならないからです。生まれた時から目が悪くあまり運動をしてこなかったデクと、病気がちで体の弱いマルムにはとても荷が重いのです。また、これから練習をしたり体を鍛えるにしても、成人の儀は三か月後であり、時間はそんなにありませんでした。
それならばと、そんな危険なことは辞退してしまえばいいという話なのですが、そうもできない事情がありました。この村では、成人の儀を終えたものを一人前として認め、人生の裁量権を与えるのでした。裁量権とはつまり、狩猟や農作業などの仕事の選択、自身で開墾して土地を持ったり家を建てたり、はたまた誰と結婚するなどなど、おおよそその人の一生について自由にしてよいということです。これがなければ、ずっと誰かの指示に従って生きるか、あるいは村を出ていくかしかありません。当然、この成人の儀すら突破できない者たちにとって、村を出て、己が身一つで生きていくというにはかなりの無理がありますから、儀式を辞退するという選択肢はあって無いようなものなのです。
「大丈夫! なんとかなるって。ね、今から練習しよう」
カロの言葉にデクとマルムは互いの顔を見合わせました。デクは一つ溜め息を吐くと、「分かったよ。じゃあ落ちそうになったら助けてくれ」言ってカロを小突きました。
「よ、よろしくね、カロ」
「任せといて!」
三人は練習用の大きな岩がある場所へと向かい、成人の儀の訓練をはじめました。